梅雨頃から作っていたHPの基礎編がほぼ完成しました。
まだまだ応用編も作っていかねばなりませんし、ブログもこちらに集中していこうと思っています。
梅雨頃から作っていたHPの基礎編がほぼ完成しました。
まだまだ応用編も作っていかねばなりませんし、ブログもこちらに集中していこうと思っています。
もうけっこう前のことになるが、今年の受験も終わった。
中学生たちは、今年も担当した全員を希望の公立校に受からせることが出来た。
ただ出来る子は凄く仕上がっていたので、県トップ校でも必ず受かるだろうと心配していなかったし、その他の子たちも学校の担任が前期試験での合格目当てで志望を下げさせるから、これも受かるんじゃないかなぁという感じだった。
なので、志望を下げようがない、地域で最も受かりやすい公立校への受験した子たちを落とさなかったことについては、いい「勝負」が出来たな思った。
ただそのことで、心から喜んだりしたかというと、そういうことはない。
子を持つ親の人には、
「私立じゃなければどこでもいい」
という指示の仕方ではなく、同じ内容でもより子供が達成感の得られる指示の伝え方をして欲しいと思う。
なのでそういった子たちの場合は、受かったという瞬間よりも、「小文字もあやしいことがある」状態から、
「あぁ、これってそういうことだったんすか・・・」
という言葉が出てくるようになる瞬間がなにより嬉しいし、仕事したなと毎年感じる。
高校部は他校舎での集団授業について行けない子対象なので、校舎初の国立・公立の推薦合格者を出すことが出来たことは良かった。
一方で、自分の得意分野である、
「彼らの」
を英語で書けないレベルの子を、半年弱で中堅私大に受からせる、という方は苦戦した。
大学への補助金制度が変わり、補欠合格者数を絞られたあおりをもろに受けた。
1000年後の人よ、西暦2018年頃から日東駒専は完全に準難関大、大東亜帝国は立派な中堅大になったんだぞ。
なんでもしかあなたの家のお子さんがこれらの大学に合格していたのなら、
「よくやったな!」
と、今からでも何度でもしっかり褒めて喜んであげてほしい。
しっかりした努力があったはずなのだから。
もう、
「ちょっとした伝説」
は作りにくい時代になった。
それが良いことか悪いことかはまだわからないが。
受験生を持つ親も多いだろうから、このことはまた書こうと思う。
学生も、保護者も、そして自分自身も、新しい事態に対する備えをしなければ。
全ての結果が出て落ち着いた後も、年賀状の返事も1枚も出さなかったし、テキスト以外の文を書くことはしなかった。
そして受験の追込み期から、トラックの調子が悪かった。
アイドリングが安定せず、吹けず、エンストすると再始動しないわで、一時は不動状態になってしまった。
なので山への散歩もクーペで行く状態だった。
ただこの場合は小袋以上のゴミを拾って積んで帰ることは出来ないので、梅や桜が咲くようになり、あたりを訪れて来る人が増えてくるにつれ、あちこちみるみる汚くなっていくのが堪らなかった。
自分でキャブレター(というエンジン回りの部品。この時代でもほぼ絶滅しているぞ)の清掃などして、なんとか移動出来るようになったところで、主治医のところまでやっとこさ運ぶ。
不調の原因は、この車によくある「ポイントの劣化」だった。
エアクリーナーボックスに水が入っているのを発見していたこともあって、キャブだと思い込んでいた。
交換で修理完了。
直ってみると、なんと素晴らしい車だったことか。
心が躍り出す。
そして、この車でゴミ拾いを出来ることは、なんと幸せなことだろうと感じた。
そして、この車でなければ続かなかったかもしれないとも思った。
自分はトレーニングをするにあたって、
「快」
の感覚を大切にしている。
「快」のない動きはダメだ。
続かない、それか続けられなくなる。
「快」にも種類がある。
その動作が、「伸びる、ほぐれる」といった肉体的な「快」をもたらすものか、
リズムもそうだし、また乗り物で言えば狙っていたラインをスムーズにトレース出来たように「狙った通りの操作を力まずに出来た」といった時に得られる、精神的な「快」をもたらすものか、
といったことだ。
それらがなければ、難しい。
「普通の人間」には続けられない。
しかし、「普通の人間」ほど「苦」を優先してしまうところが「悲喜劇」を生むわけだ。
1000年後の人は驚くだろう。
今の時代の人間は、まだ苦しい腹筋運動とかしてるんだぜ。
「普通の人間」に根性が無いなんて、自分にはとても思えない。
このトラックは、運転がとても楽しい。
操作の一つ一つが楽しく、そして「楽(らく)」ではないけれど「快」を伴う。
また2気筒エンジンの
「トン・トン・トン・トン・・・」
というアイドリング音も、「快」を伴う。
ゴミを拾って車に戻る時、この音が地獄に吹く涼風のように頬をなでる。
すると、また気力がよみがえるのだ。
これで4気筒のエンジンだったら、きっと続かなかったろう。
なんと幸せな巡り合わせだったのだろうか。
不調のおかげで、そのことを痛感出来た。
そしてそのことが、こういったことに対する自分の意識をまた次のステージに進ませてくれたと思う。
行為の辛さも、投棄者に対する憎しみもかなり減ったし、こうやって書いておこうという気にもまたなってきたのだった。
それで気になっていたところを一気に綺麗にしていると、ゴミの引受先になっていた公民館からクレームが来た。
何故あんたはいつも公民館にゴミを置いていくのか、と。
7年前に、集めて分別までしたゴミを、公民館のゴミ置き場で保管はしてくれ、といった依頼を自分がした。
当時の館長が一度断ったにもかかわらず、自分が責任取るから置いていけ、と館長より偉いらしい副館長が言ってから続いてきていることだったのだが、時間が経ってその時の事情を知っている人は誰もいなくなっており、引き継ぎもされていなかったらしい。
それじゃあさぞ気味悪かったろうね。
経緯を説明し、拒否しない方が良い理由も伝えたら、翌日すぐに受け入れ許可の連絡が来た。
そして先日からは今まで手を付けないなかったエリアに入った。
パワースポット的な雰囲気があり、見た目からして綺麗な場所だったので、今まで来ていなかった。
しかし、
今日とても面白いことがあり、どこかにこのことを書いておきたいなと、パソコンのブックマークを調べてみると、ここのパスワード表示が復活しているのを見つけたので、また書きます。
夕方からの授業に行く前に、ワンコの散歩に行こうと玄関のドアを開けたところ、
ゴキブリが2匹、飛んで来てドアのすぐ横にぶつかり、ポトリと地面に落下した。
前にも一度、こういうことがあった。
まるで室内に入りたくて、出待ちをしていたかのようだ。
山をしばらく散歩して、戻って玄関前でワンコの体を拭いた。
そして玄関の扉を開いた瞬間、
わずかな隙間から「飛行ゴキブリ」が飛び込んでいった。
風除け室内の扉は閉められていたため、それ以上の侵入は出来なかったゴキブリをすぐに捕まえ、外に逃がした。
しかしなんということだろうか。
彼らは、人間の動きを、
「ひと続きの行動とその意味を」
を見て、理解してるのだ。
「見ている」のだ。
ちなみにオレは生徒たちの、
「ゴミ箱にゴミを入れる瞬間の動作」
「下駄箱から出したスリッパをどう着地させるか」
「送迎の車から降りる際の保護者に対する態度」
をよく見ています。