1000年後へのブログ・・・偏頭痛を治そう⑤
「新しい生活を始められたのも、続けられたのも、偏頭痛のおかげ」
しかしそれは、
「いつまでも自分の状況を 『偏頭痛のせい』 にしていては、偏頭痛は治らない」
ということでもある。
そのことに気づいた時、また変わらなくてはならないと思いました。
ただそれは、
「田舎暮らしを放棄して都会に帰る」
とか、
「近辺で正社員の仕事に就く」
とか、
そういう変化のことではありませんでした。
「自分が今何をしている、これから何をする」
ということではなく、
「自分の心の在り方を、根本から見つめ直し、変える」
「自分が『何をするか』ではなく、自分が『どういう考え』でするのか、に意識を向ける」
私に必要なのはやはりそれでした。(ここは難しくもある部分ですので、あとで捕捉します)
あちこち掃除し、渓流をワンコと歩きながら考え続けました。
渓流を散策しながら考えているうちに、周囲からは
「ゆとりのある人」
に見えるようになっていたらしく、「ゆとり」について思うところを書いてくれと地元紙から頼まれました。
『ゆとり修正無し30分勝負』
「ゆとり」について考えなくてはいけないのですが、今日は勉強がまだなので30分で頑張ってまとめてみようと思います。
書き直しもしませんん。
我々は周囲から「ゆとり」があるように見えているようですし、自分たちも最近は「ゆとり」があると感じています。
でも、
「ゆとり」とは何か
と考えるとわからない、ですよね?
少なくとも私は昔、
「時間とお金があれば、その時『ゆとり』があるだろう」
くらいに考えていたと思います。
でも普通は業種が何であれ、結局は自分の「時間」を切り売りして「お金」に換えているわけだから、その二つはなかなか両立できない。
だから定年になるかまで少しでも多くの「お金」を貯めて、その後に「時間」が出来たら「ゆとり」を楽しもうと、多くの人がそう思っていると思います。
私の場合はそれが待てなかったので、とりあえず「時間」を先に確保することにしました。
「お金」はどうにかなるだろうと思いました。
お金があったわけではないです。
でも極端な事を言うと、大昔の人は「貨幣」が無くても「暮らし」は歴然と存在したわけではないですか。
だから何とかなるだろうと思いました。
実際そうでした。
少なくとも「固定収入」だけで全てを考えるのは、ちょっともったいない話だと思います。
話は戻って、で我々は渓流でゴロゴロしたり、犬と昼間から散歩したり、ボランティア活動したり、子供に格闘技を教えたりしている。
周囲はそれを見て、
「ゆとりがある」
と判断しておられるのだと思います。
でもそれぞれ一つ一つ見てみると、どれも結構大変な行為です。
山をうろつくのも大変だし、犬をちゃんと世話して手作りご飯をあげるのも、ペンキ浴びながら落書き消すのも、体を張っての格闘技の指導も、すごい負担です。
でもそれらは確かに「ゆとり」と関係しています。
ちょっとコンガラがってきましたので整理しますと。
まず、
「ゆとりがある」とか「ゆとりをもて」
という言葉がおかしいと思います。
これは重要な点で、これらの言葉のせいで多くの人が「ゆとり」に辿り着けなくなっていると思うのです。
「ゆとり」というのは、何気にほとんどの人が一生を懸けて手に入れようとしている、人生の究極目標の代表格なわけではないですか。
大問題です、この事態は。
ゆとりは「春一番が吹いた」とか「景気が上向きだ」といったような 『現象』 ではない。
もちろん「洗濯機があればジーパンが洗えるのに」とか「やすりがあれば爪が砥げるのに」といったような 『物』 でもない。
ゆとりと「時間がある」や「お金がある」も実はそれほど関係は無い。
ややこしい事をあえてすることによってゆとりが発生するケースもある。
発生するといっても「ゆとり」が床の間に現れる訳ではなく、心に現れるだけである。
つまり「ゆとり」は『感情』である。 「ゆとりを感じる」という表現が正しい。
川でゴロゴロすることも、ボランティアも、ワンコの世話も、格闘技も本質的にはゆとりとは関係は無く、ただ私がたまたまそういったことをすることによって、
「個人の心の満足感」
を感じて得ているだけということで、我々を見てゆとりがあるように感じるという人も、たまたま方向性が似ていただけということ。
なお、「ゆとり」には「個人のペース」が大きく関わっているようです・・・。時間切れ
依頼されて慌てて考えて、予行練習としてFBに書いていたものです。
しかしこれがきっかけとなって、この問題についてより考えるようになっていきました。
田舎暮らしを始めたからといって、体がある程度はともかく、心がすぐに変わるわけではありませんでした。
身体的な束縛は一気に減っても、やっぱり不安はあって、それで緊張し続けてしまっていますから。
そしてその心の「緊張」は、体にも悪影響を与え続けていたわけでました。
それが解けてきたのが、私の場合だと1年半ぐらいでした。
それくらいかかりました。
でもこれは「時間が経過したから」というよりも、
「ゆとり問題がきっかけで考えた」
ことの方が大きかったと思います。
それをきっかけにして、心も変わりだしました。
「ゆとり」についての取材の前に、過去のバックナンバーを図書館で探して、他の人がどのようなことを語っておられたのかチェックしに行きました。
過去の取材の対象者はご年配の方が中心だったようでした。
そして多くが、
「○○することが私の趣味で、これに夢中になっている時にゆとりを感じるんです・・・」
という内容のもので、
「私の趣味紹介のコーナー」
の様になっていたのです。
ずっと読んでいるうちに疑問がわいてきました。
これまで登場した年配の方々は、好きなことをしているとゆとりを感じるんだと言っている・・・。
好きなことをしていれば、ゆとりを感じる、自然な話です。
では何故、多くの人がゆとりを感じずに生きているのか?
「好きなことを出来ていないのか?」
「では何故しようとしないのか?」
また、
「現代人はわりと好きなことをしているのではないか?」
「それは本当に好きなことなのか?」
「そもそも好きなこととは?」
といった疑問です。
エンドレスになってしまうので、
「自分も含め、人は何故好きなこと生業にして、ゆとりを感じながら日々生きていくことが難しいのか」
といった比較普遍的な疑問に、今は一旦まとめさせてください。
この問題について、あまり考えなくても私の場合すぐに頭に浮かんできました。
「好きなことばかりするな」
「好きなことを仕事にしてはダメだ」
と、あちこちから散々言われてきたことがですね。
しかし考えてみると、これはおかしな話でした。
誰でも好きなことをしていれば、ゆとりを感じられるだけでなく、大きな力を発揮できるからです。
人間好きなことをしていると元気が出ます。
エネルギーやアイデアが次々に沸いてきて活発になります。
多くの出会いに恵まれ、それだけ多くの人の助けを得られ、また助ける喜びを体験する機会にも恵まれます。
こうなってくると大きな病気をしなくなってきて、また通院のための時間がもったいなく感じるようになってきて、病院に行かなくなってきます。
これで保険料問題は解決です。
さらに快活になって見た目も内面も明るくなるので、モテるようになります。
これで少子化問題も解決です。
いいことだらけです。
しかし、
「好きなことで生きる」
という考え方は基本的に拒絶されます。
真面目で「いい人」ほどそうでしょう。
それは日本人に染み付いた習性というか信仰に近いものなのだと思います。
まず、
「好きなことを仕事にしてしまうと、その好きなことを純粋に楽しめなくなってしまったり嫌いになったりしてしまうからよくない」
という考えがあります。
しかしこれは少し考えれば分かるのですが、
「好きなことの一つを嫌いになる かも ということ」
と、
「好きでも何でもないことに人生の半分を捧げ 続ける ことになるということ」
どちらがリスキーで、人生全体を灰色に近づける選択かは明らかです。
しかも嫌いになる「かも」ですから。
もちろん嫌いだと思っていたことも職業として続けているうちに、面白さが見えてきて好きなことに変わることもあります。
次に、
「好きなことばかりしてちゃダメだ!」
という考え方が根強くあります。
その理由として、「勉強にならない」というのがよく言われます。
でも好きなことに打ち込んでいるときの方が、人はよほど自発的に学びますし、その時に身についたものはなかなか消えないものです。
私は今実際に好きなことだけ仕事にしていますが、空いた時間は勉強ばかりしています。
「いや・・・でもだな、『忍耐』を学べないだろ!」
と今度は言われます。
しかしそれは嫌な事を我慢してやるから一番必要になってくるものであって、好きなことをしていればそもそも不要なものなのです。
また好きなことで生きるという生き方は、それ特有の逆風を浴び、困難にぶつかり、そこから学ぶことになる生き方でもあります。
その中にも『忍耐』も、それはかなりのものが、ちゃんと含まれてくるのです。
やったことがない人は、それを知らないのです。
すると今度は、
「皆が好きなことをしていたら、社会は滅茶苦茶になってしまうではないか。
お前は自分だけ楽しければ良いのか?皆が幸せに暮らせる世界を作ろうという気が、お前には無いのか?」
と言われます。
ここで、
「好きなこと、とは」
ということについて、もう一度考える必要性が出てきます。
あなたにとって、本当に好きなこと、それはどのようなことですか?
つづく。