1000年後へのブログ 氷河期世代のとらわれない暮らし

ある氷河期世代の、常識や過去の経験にとらわれない、暮らしいろいろを題材にしたブログです。

1000年後へのブログ・・・偏頭痛を治そう⑦



 「皆が自分の好きなことをしていたら世界が滅茶苦茶になる」



などということが起きない「消極的な理由」に、



「自分が本当に好きなことと向き合おうとする人は、絶対的に少数だから」



と書きました。






やってみるとわかりますが、かなり難しいことです。



本能的なもの


洗脳的なもの


肉体的・精神的ストレスの反動として生じているもの



そういったものの影響を排除して、自分の芯と向き合う。難しいです。




その過程で、過去の痛みを掘り出してしまうこともありますし、現状に堪えられないと感じるようになってしまう可能性もあります。





なにより自分の本当に好きなこと、夢を明確にしてしまうと、



「この夢を、自分の夢を叶えることが、本当に自分に出来るのだろうか?」



という不安とも向き合わなくてはならなくなります。






この不安はかなり強力なもので、人に自分の夢を放棄させ、それについて考えることもさせない、あるいは他人または組織の夢に相乗りする方へ人を押し流します。



それであれば、もし叶わなかったとしても、ショックが少ないと予想されるからです。




しかしそうした瞬間に、自分の心の一部は盗まれてしまいます。





自分が本当に好きなことと向き合うのは、こういった理由でとても難しいことです。



「学校で時間を割いておいて欲しい事」


として、


「登記・税金・金利」 


を私は考えていて、塾の子にはそういったことも少し教えているのですが、一番時間を割いて学校で教えておいて欲しい事は、



「自分の本当に好きなこと、またそれと向き合う技術」



です。




キャッチボールをすれば明らかですが、相手のミットさえしっかり見て投げれば、かなりの確率で狙ったところにボールは飛んでいくのですから。







 多くの人はそれを知らないまま、そんなことについて考えるのは


「良くないことだ」


とまで考えながら年老いていきます。




不思議なことに、というかその理由は前回書きましたが。



「さらに好きなことについて考える」


何故「偏頭痛を治そう」というテーマで、これほどしつこく「好きなことをする」ことについて考えるのか、最初から読んで頂いている方には私の意図はご理解頂けてていると思いますので続けます。




例えば、車で旅行中に足止めされ、途中で数泊することになったとします。


近くには2つ村がありました。



ひとつは、

村人がみな「せねばならぬ」と思ったことを、それぞれの仕事にしている

『ならぬ村』。



もうひとつは、


村人がみな「好きなこと」と思ったことを、それぞれの仕事にしている


『好きなことの村』


です。



ガソリンスタンドの店員は、車とガソリンの匂いが好き、


マックの店員はマックを売るのも、自分が食べるのも大好き、


消防士は消防車と訓練が大好きで、待機時間も消防車にワックスをかけたり懸垂したりしている。




どちらに滞在したいかといったら、私は迷うことなく「好きなことの村」で宿を探します。



ほとんどの人がそうでしょう。


明らかに「ならぬ村」よりも快適・安全に過ごせるでしょう。







「人は○○をすべきだ」


「人は○○せねばならぬ」



と人が言う時、それは単に


「その人が相手にして欲しい事」


の希望を表明しているだけのことです。




その人にはその人の理想とする世界観があり、その理想の世界を構成する為のパーツを探しているのです。



同じように相手には相手の理想とする世界観があるはずで、他人の世界観を受け入れる義務はありませんし、自分の世界観を他者に強要してもつまらない。




荒っぽく言えば、


「世界で一番美味いのは蟹だから、お前も蟹を食うべきだ」


と言っているのと大差ないのです。




こういうことを言えば普通は喧嘩になるでしょう?



・・・だから実際に争いが絶えないわけです。





それぞれが


「美味いぜ!生きてて良かったぜ!」


と思うものを、喜んで食べているのが一番楽しいのに。



それでいいのに・・・。






 私もずっと『ならぬの村』の住人のような生き方をしていたんですけれど、どうしてだったのでしょうか?



周りにはして欲しい事を、


自分はしないでおいて、


何を達成しようとしていたんでしょうか?



前に近所の山の中で知り合った千葉の陶芸家の人と、その後フェイスブックでやり取りしていたところ、


「田舎だと霊園は問題にならないけど、都会では問題云々」


というメッセージがあり、


「確かに田舎だと、家の隣にお墓があってもそれほど気にならないですね」


と返信したところ、



 「霊園ではなく『0円』の間違いでした!」



という返事が返ってきて、面白いなと思ったことがありました。



田舎だと「霊園」も「0円」もそれほど問題じゃない・・・。



霊園に関しては、田舎だと「お墓」の存在に連続性があるからでしょう。


 都会だと、見ず知らずの人の死が急に自分の生活の中に現れる感じになるので、恐怖を感じるのではないでしょうか。




 一方で「0円」に関しては、お金を通さなくても解決できることが多いということですね。


0円はともかくとして、お金を使わないことをハッキリとテーマに掲げて、田舎で自分でなんでもする生活を送れれば、そうとうお金を使わずに生きていくことが出来ると思います。



 自分で食べ物を作り、家を建て、健康を維持し、娯楽を楽しむ。




これが出来るという人は、単にお金を使わない人ということではなくて、



 「お金に対する依存度が低い人」


ということになります。


つまり自由な人ですね。



一方で都会生活というのは、

「お金という媒体を通してでないと、多くのことが出来ない」

生活です。



お金を払って食料を手に入れ、移動し、休息し、楽しむ。



近所との付き合い等も、町会費を払うことだけで済まされている人も多いでしょう。



こういった生活は、お金を多く持っているいないに関わらず、お金に対する依存度は高くなり、お金に自分の行動をかなり決定されてしまうようになりがちです。



お金の価値が高くなっているのです。



ある意味で、お金の価値は国内共通ではないのですね。




そしてそのお金を手に入れる経路は、都会生活の場合

「会社からもらうだけ」

という人が殆どでしょう。



何をするにもお金が必要で、そのお金が入ってくる経路は会社ひとつだけ。



この状態だと、会社でやっていけるかどうかが、そのまま


「生きるか死ぬかの問題」


に感じられるようになってしまいます。



生きるか死ぬかの問題ですから、体を壊すのが時間の問題の様な無茶もします。



また、


本来の自分であればありえない怒り方をしたり、


周囲にも無理を強要してしまったり、


 顧客に対し表面的にはともかく、深い部分で不誠実な対応をやむを得ずしてしまう、



そういうこともあるかもしれません。





この状況から抜け出すには、シンプルに考えて、



「お金に対する依存度を下げる」


そして、


 「お金の入り口を増やす」



ということになります。





ここまで考えた時に、気になることが出てきました。



「ひとつの事に打ち込み続けるのが美しく正しい」



という考え方です。



私は最近でこそ様々な仕事を掛け持ったり、やってみたかったことを何でも出来ている感じなんですが、ちょっと前までは


「○○だけ」


の人間だったんです。



稽古だけ、とか、仕事だけ、とか。




小さい頃は多方面に興味を持っていろいろ齧っていた記憶があるんですが、その度に周囲から


「そういうのは器用貧乏って言うんだ。そんなのになるな」


を連発されたので、なんだか悪いことをしている気になって、自分の好奇心を次第に封じ込めるようになったのだと思います。




この、

「器用貧乏」

という言葉・・・改めて検索してみて思ったのですが、何かと議論を呼ぶ言葉なのですね。


そもそも 「器用」 とはどの程度のレベルのことなのか?

「貧乏」 とは何ぞや?




そういった言葉の定義はともかくとして、

「器用貧乏な人」

と言われる存在に、実際に自分がなった時にわかったのは、


お金が無かったとしても、そもそも自分で解決できることが多いのであまり困らないし

仕事の出来上がりが多少悪くても、その瞬間を楽しんでやっているんで本人は満たされて生きていける



ということでした。



私に、


「器用貧乏になるな」


と言った人達が何を思ってそんなことを言ったのか、考えてみると根底に



「一つの事を極限まで追求するのが美しいし正しい」



という日本的(?)な美学がまずあったのだと思われます。




でも私は 「日本的」 な武道の世界にどっぷりいて間近で見てきたのですが、一つのことだけに打ち込み続ける人は、むしろ心がとても弱い人です。


私もそうでした。



そして武器が一つだけの場合、間違いなく実社会生活では翻弄されてしまいます。



器用貧乏で且つ気難しいオヤジになった方が、よほど楽しくそして強く自由に生きていけるのです。



実際にそういった周囲からすると



「扱いにくい」


人物は長生きするんです。




私も若返って凄いですよ。


114歳位まで、きっと軽く生きますね。



「器用貧乏になるな」



という言葉の裏には、社会にそういった人間を増やしてたまるか、といった気持ちが強くあるのではないかと私は思いますね。


 恐ろしい言葉です、器用貧乏。






多くの人にとって、仕事の問題が

「生きるか死ぬかの問題」

になっていて、その為に自分の健康、または一般的な幸福状態までをも犠牲にしてしまっている・・・。



実際に毎年多くの人が、


労災扱いでなくても仕事が原因で死んでいる


そのことを皆さんご存知でしょう。




しかし、この状況から抜け出す簡単な手段の一つである、



「お金に対する依存度を下げる」


「お金の入り口を増やす」



という方法は、選択されにくいようになっている・・・。



「そんなことをしてはいけない!」


常識、道徳や美学、そういったものの皮を被った様々な圧力が、追い立てに来ることでしょう。



そしてそれは自分の中からも、きっと湧き上がってくるはずです。





大都市に人が集まり続けています。


お金に対する依存度はこれからもより上がるでしょう。



効率の問題で仕事は日に日に細分化されています。


 一つのことをし続けて一つの入り口からお金をもらう人がより増えていくでしょう。



社会・組織に意思はありません。

人間の意思があるだけです。





人間の根底に何があって、こういった流れを作り出しているのか、


いえ、自分の根底に何があって、自分を痛めつけ、偏頭痛などの症状を引き起こしていたのか。





それが私が考え続けて辿り着いた



「黒幕」



の正体であり、それは



「恐怖」



でした。





次で偏頭痛編終わりです。

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