1000年後へのブログ 氷河期世代のとらわれない暮らし

ある氷河期世代の、常識や過去の経験にとらわれない、暮らしいろいろを題材にしたブログです。

心の術の使い方・・・好きなことをする方法1





皆さんは毎日好きなことをしていますか?





あえて難しく考えようとしなければ、好きなことをして毎日過ごせていれば、それだけで人は



「幸せだ!」



と感じるはずです。





好きなことをするということは、それだけ大事なことです。




ところが 「毎日好きなことをして過ごしています」 そういった人と出会うことは、極めて稀です。





なぜ、多くの人は好きなことを出来ないのでしょうか? どうすれば出来るようになるのでしょうか?

そこのところを、オカルトに走らず、「理屈」で考えていきましょう。



『好きなことをしたい人が、まず理解し肝に銘じておくべきこと』


真面目な人は 「好きなこと」 をしようとする時に 「罪悪感」 を感じるものです。




「好きなことばかりしていてはいけません。 皆のために、するべきことをして、好きなことはそのおまけ。ご褒美程度にしておくものです」



そういった考えを、誰かからずっと押し込まれて育ってきているからです。




誰かから。 




殆どの場合は親であり、教師であり、上司であり、そういった考えを目上の人間から押し付けられた結果です。







簡単な話で、多くの人が「好きなこと」を出来ないのは、好きなことを「悪いこと」だと思っていて、



「悪いこと」 だと思っているから 「出来ない」 のです。   




それか好きなことを実は出来ていても、まわりには言わないのです。





悪っぽい人が好き勝手に振舞えるのは、 「おれは悪いから、好きな事という悪い事をしちゃうぜ」 位に思っているからです。




いわゆる 「いい人」 が 「好きなことをする」 という言葉を聞くと、一瞬腹が立ったり、不安を感じるのは、それが 「悪いこと」 だと思っているからです。






しかし、




「好きなことばかりしていてはいけません、皆のために、するべきことをしましょう。 それが良いことです」




このもっともらしく、殆どの 「いい人」 が縛られている考えは、神様が決めたルールでも、宇宙の法則とかでもありません。 






単に親や教師や上司といった、人を支配する立場の人間にとって、都合の良い考えです。


(全ての人が、人を支配する立場になった時に、都合の良い考えとも言えます)






自分がさせたいことをさせるために、ただ 「やれ!」 と命令しては嫌われるので、



「皆のために、するべきことなのだから、やりなさい」



とずっと言ってきて、それが今も言い続けられているというだけのことです。 





皆さんも、人を支配する側になることもあるはずですが、大量の知識と経験に基づく、はっきりとした自分の考えが無い事柄(例えば医療・食栄養・教育)に関してほど、



「するべきって言われているからやりなさい」



と言って済ませてきていると思います。




好きなことをしたいならば、まずこのこと肝に銘じてください。




「好きなことをすること自体は、別に悪いことではないのだから 『罪悪感』 を感じる必要は無い」




誰がが 「好きなことをしないで〇〇をすべきだ」 という時、その「〇〇」とは、単に 「その人があなたにさせたいこと」 である、と。




その〇〇をさせることで、相手は 「安心」 したいのだと。 






相手は 「不安」 なのだと。







なので、好きなことをする際に誰かを説得する必要がある際は、相手の不安をよく理解し、解くことが必要なわけですが、最終的には、そういう必要もないのだということも、分かることになるでしょう。





「良い人」  が「好きなこと」 を出来ないのは、 「好きなこと」 を 「悪いこと」 だと思っていて、「悪いこと」 だから 「良い人」 ほど 「好きなこと」 が出来ない。




と書きました。





「罪悪感」 が 「好きなこと」 をさせないわけですが、ではその 「罪悪感」 は 「誰」 に対してのものなのか?




そこを見つめていきましょう。






『神様がいたなら、どう思っているか』



神様。



特定の宗教の神様のことではなく、この世界を作り出した何らかの 『意識』、それがここでいう  『神様』  のことになります。



もちろんそれが存在する、ということを私は言いたいわけではありません。






『神様(何らかの意識)』 が存在し無かった場合、それでは宇宙は 『科学的な偶然の反応の連続』 で出来たことになります。




そうやって生まれたとした世界を 『宇宙』 とここでは呼ぶことにします。



そのいずれかになります。






念押ししておきますが、私としてはそれはどちらでもいいことなのです。





ではまず 「神様」 の方から。




神様がいたとして、神様は人間に対して 「あれをしてくれ、これをしろ」 といった要求はありません。



ありません。






神様はそんなに貧乏臭い存在ではありません。



そもそも全知全能なのですから。 




人間に何かをさせる 「必要性」 は無いのです。




やらなければどうにもならない必要性があることは、神様は最初から自分でやっています。






生き物が生きていくのにどうしても酸素が必要だから、酸素は用意されています。


陸上を移動するにどうしても足が必要であるから、足も生まれながらに付いています。




「やっていない!あれがない!」




と人間が感じる部分は、神様は 「現状で良い」 と思っているからこそ、そこには手を付けないできているのです。





人間が鳥のように飛べないのも、モグラの様に土に潜れないのも、過去にタイムスリップ出来ないのも、未来が分からないのも、神様は




  「人間には必要ない」




 と思っているから、そうしているのです。




そして、人間を神のごとくに完璧な存在として作らなかったのも、 「その方が良い」  と思ったからです。






そうでなければ、神様は失敗作を作ってしまった、失敗したことになります。 



でも神様は完璧でしょうから、失敗はしません。




神様が失敗したというのは、神様に対する侮辱になります。





だから 「神様は人間を完璧に作ったけど、後で人間が堕落した」 と宗教は言います。 






でもそれも結局は 「子育て」 に失敗したということでしょ。



神は完璧なのだから失敗はしません。(もし完璧でないのならば、こちらも全て言いなりになる義理は無いでしょう)






つまり、人間に欠陥があるように感じても、世界に問題があるように感じても、そういったことにも神様には何らかの意図があって、狙ってやっているということになります。




神は死んだわけではないのです。 




ただ人間に不要なものは付けなかった。





完全さも含めて。





そして、自分が手を出すことではない、と思っている部分については、手を出さないでいるだけです。





つまり神様は、人間に対し


「私は必要なものは用意しておきましたし、今も裏方はちゃんとやっていますから。 皆さんはこの世界の中で好きにしてください」


と思っています。




あなたが全知全能の神だったとして、宇宙と地球、多くの生き物と、そして人間を作り出して、その人間に対して



 「さあ!あれをしろ!これをしろ!」



 と言いますか?








答えて下さい、あなたは、言いますか?








「働け!納税しろ!軍隊を編成して戦い合え!神殿を建てて私を拝め!」




あなたは言う気になりますか?






勿論、絶対にそんなことは思わないでしょう。





神様はなおさらそんなことは思わないはずです。





人間より、人間が出来ていますから。





もし、そう思わない神様だったとしたら、私だったらドン引きしますね。



結局、こういった 「人は〇〇すべき」 といった考えは、「神様」ではなく、まるっきり 「王様」、つまり支配者的立場の人間の発想なのです。




ですから、




「神様があれをしろ、これをしろ、と言っているから皆さんそうしなさい」




という考えは、全て神様の名を騙った支配者的発想から来ていると考えるべきです。





神様は何も要求していません。



そして人間には、好きなことをして過ごして欲しいと思っています。




これだけの凝った環境と、多感で複雑な心を準備してくれているのですから。






ここまでお話してきて、私が 「神様が、神様が」 という部分が宗教的で、抵抗を感じたという人も多いと思います。





ちょっと考えれば、私は既存の宗教の神様を否定しているわけで、宗教的ではないことになると思うのですが。




でも私が宗教的と思われようが、逆に宗教を否定していると思われようが、それは今はどちらでもいいことなのです。




私は 「神様がいるかいないか」 を証明したいわけではなく、 「人には義務は無く、好きなことをしていいのだ」 ということを証明したいのですから。









『宇宙はどう考えているか』


では神様的なものは存在せず、科学的な偶然の連続で、宇宙が生まれ、地球が生まれ、生物が誕生し、人間に進化したと。



それでも私は全然かまいません。





では、「科学的な偶然の連続で誕生したこの宇宙」 から、どうして 「人はすべきことをするべきだ」 などといった考えが生まれて来るのでしょうか?



宇宙もそんなことは全く考えていません。



というか、宇宙はなにも考えていません。





宇宙はただの科学的な偶然の連続なのですから。





そう、宇宙は何も考えていない、考えられないのです。




もちろん人に対し 「何々すべき」 などとは思いようがありません。






結局のところ 「人には義務があり、すべきことをするべきだ」 というのは 「宇宙の法則」 でもなく、「神様の作ったルール」 でもないのです。



繰り返しますが、人が人を支配するために、後から作り出した発想なのです。





だから、たいして恐れなくても大丈夫です。 



神様や宇宙に対して罪悪感を感じる必要はありません。





繰り返しますが、神様も宇宙も、 「あれをしろこれをしろ」 とは思っていません。


好きなことをすることに、罪悪感を感じる必要はありません。




これで 「好きなこと」 が少ししやすくなってきたと思います。





繰り返しますが、本質的には人間に何の義務もありません。



それは支配者的立場の人間(つまり全ての人間)、人間が自分の都合で作り出した幻想です。



皆さんが神様なら、人間に対して 「好きなことしなさい」 と言って、温かく見守ろうとするはずです。




例えば、部屋いっぱいに山や海や街の模型を作って、お気に入りのヌイグルミたちを配置して、それらに命を吹き込んだとします。



「さぁ、この環境の中で存分に楽しんでくれ!」




それ以外のことは、皆さんは考えないでしょう。






そしてイキイキと遊びまわったり、山によじ登りだしたり、手作り潜水艦を作って沈没させたり、 「好きなことを」 夢中になって始めるヌイグルミに喜ばせられ、愛着を抱き、応援したいと思うはずです。








ところが、



隅っこに固まって動こうとしない、




何かを蓄えることばかりしている、




「こんな世界じゃ何も出来ない」と文句ばかり言っている、







そして、 




「義務と思ったことを苦しげな表情で繰り返している」 




こういったヌイグルミたちには、



「なんでだよ・・・」



と思って次第に興味を失うはずです。






そうでしょう?













であるならば、皆さんはまず自分自身に対してもそうしたらいい。 



自分を好きにさせるべきです。






好きなことをしたらいい。





そして他者も、自由にさせるべきです。








していないのであれば、何故していないのですか?









皆さんは好きなことをしていいし、させていいのです。 






むしろ好きなことをした方が、させた方が良いのです。











『好きなことと不安』



人は好きなことをしていいのです。




繰り返しますが、皆さんが神様ならば、人間に対して 



「好きなことをしなさい」



ためらうことなく、そう言えることでしょう。









しかし人である我々は、なかなかそれが言えません。 



そして自分自身も好きなことが出来ません。









では、 「神様と人の違いは何か?」 ということになります。






それは 「不安を感じるかどうか」 の違いです。



神様と人間の違いは 「不安を感じるかどうか」 です。










神様には不安はありません。






全知全能であり、過去のことも、未来のこともお見通しでしょうから、不安を感じようがないはずです。






もし不安があるとすれば、何でも出来て、何でもお見通しの状態が、永遠に続くことへの不安だけでしょう。




それは人間の基準で考えると、退屈な生活といえるかもしれません。








一方で人間は 幸いなことに  「不安」 を感じることが出来ます。




しかし多くの人は、 「不安」 を感じられる幸せを自覚せずに、 「不安を感じないこと」 を最も優先して生きています。






そしてまただからこそ、身近な相手、大切にしている相手に関することだからこそ、強く不安を感じ、その結果好きなことではなく、



「自分が既に知っていること、予想が付くことをさせようとする」



のです。





なぜならそれが、自分が 「一番不安を感じないで済む道のり」 だからです。





自分の仕事に不満を言いながらも、それでも子供を自分と同じ会社に入れようとしたり、家業を継がせようとしたりする親は、この典型です。





不安なのです。



多くの人は、不安を感じないで済むことが最優先なのです。





だからまた好きなことが出来ない。



楽しいか、好きなことかを、最優先にはしていないのです。





一度通った道を歩く、知っている道を旅する、案内するようなものですから、それほど楽しくはないでしょう。


ある意味で、神様の生活に近いですね。








さてここまで来て、思わぬことがハッキリしてきました。




そう、不安があるから、人が生きることは面白いのです。 


楽しめるのです。





しかし多くの人が好きなことをしないでいる、させないでいる理由も、不安がある、恐れているからなわけです。






人が好きなこと、楽しいことには必ず何らかのリスクがあります。 




しかし多くの人は不安を感じないことを最優先しているから、好きなことが出来ないのです。







不安を感じないでいられることを最優先にしているうえに、好きなことは 「悪」 というイメージまで生まれた時から刷り込まれ続けている.




これでは好きなことが出来ている人間が少ないわけです。







恐れているから、先人の言うことに従って、 



「するべき」 



と言われたことをすることで安心しようとして、そして好きなことをしないでいるのです。





その 「するべき」 と言われたことが、



どんなに辛く苦しく、奇妙で、そして心身に傷を残すことであっても、



不安を感じるよりいいのです。






つまり視点を広げてみると、 



「不安を感じたくない」 


という 


「好きなこと」 


既に自分で選択しているのです








既に 「好きなこと」 をしているのです。






問題は自分にその自覚があるかどうかです。




「これは自分が好きで選んでいることなのだ」 と。






不安を感じたくないという、好きなことを、自分で選んで、既にしているのだと、まず自覚することです。







そうであれば、自分で決めた事ですから、自分が望めばすぐに変えることが出来ます。








ですがそうでなく、



「誰かの指示で、私は嫌だけれど義務として好きでもないことをしているのだ」



と考えているのでは、自分ではどうすることも出来なくなってしまいます。







自分で決めた事ではない、そして自分には抵抗する力も無いと思っているのですから、当然です。



となると、自分に指示してきている 「誰か」 の考えが変わるのを、 「忍耐」 しながら待つしかありません。








そういう日は、おそらく来ないでしょう。





来たとしても、またその 「誰か」 の考えはコロッと変わるかもしれません。



つまり結局、その後も 「運任せ、成り行き任せ」 の生活が続くことになるのです。






そんなことはせずに、



「そうだな、これまでも、自分で好きな方を選んできたのだ、これたのだ。 これからも好きな方を選ぼう、それも意識して、楽しいことを選ぼう」



と自覚を持って覚悟することです。











『意志とアクシデント』




しかしこうも思われると思います。



「確かに言われてみれば、今までも 『こっちの方がマシ』 だからということで、広い意味で自分で 『好きな方』 を選んできたともいえるだろう。



しかし人生には、自分の意志とは関係なく、どうにもならないような事が起こることもあるはずだ。


ニュースでもやっていた、飲酒運転の対向車が飛び込んできた事故なんて、被害者がどんな判断をしたから、事故にという結果につながったというのだ?」




と。







確かに、人の人生には自分の判断では決められず 「運任せ」 から逃れられないと感じる部分があり、100%出来事は自分の判断の結果、とは言い切れない、と私も思っています。


不慮の事故や災害など、そうですね。








しかし、そういったことがあるからといって、 「人生など運任せで、自分にはどうにもならないものだ」 と考えるのは冷静ではありません。






例えば、いつも挨拶をすると気持ちよく返してくれる、毎日顔を合わせる友人がいたとしましょう。



ところが何千、何万回のやり取りの中で、何度か挨拶が返って来ない、思いもよらない接し方をされたことがあったとします。







この時に、 


「あいつは挨拶もしないし、何考えているのかよく分からない行動をする奴だ、あいつなんてそんなもんだ」


と決めつけてしまうのは、冷静な判断でしょうか?





それからずっと、 



「あいつはそういう奴なんだ、何をするかわからない、危ない所があるんだ」 



と決めつけ、怖がりながら接し続けることは、自分に得を、利益をもたらす行動でしょうか?







つまり、




「人生なんて思いもよらない事があって、自分ではどうにも出来ないもんだ」




と決めつけ、開き直って成り行き任せで生きるのは、自分にとって 「得」 な行動なのかということです。









そうではないでしょう。




「不慮の出来事があったとしても、それでも、起こる出来事は自分で選んだ結果、だからこそ自分で変えられるのだ!」




そう考えて行動した方が 「得」 なのです。 






生きている間の時間を、自分の建設的な意志で、自由に過ごせるのです。








だから覚悟を決めて下さい。 自分の判断だけが、運命の運命を決めるのだと。 




ここが 「勇気」 を奮うところですよ。







厳しいことです。



でも、そういうものだと認め、覚悟を決めない限り、いつまでも自分の人生を歩むことは出来ません。 






「思いもよらなかった!」 アクシデントに、いつまでも振り回され続けるでしょう。



つまり 「あれをしろ、これが義務だ」 と命令され続けるままで、起こる出来事に受け身で翻弄されるままで、自覚を持って自分で好きなことをすることは出来ないということです。







自分の運命に責任を持っているのは誰か?





それは100%自分自身だと。



そう胸に刻んでください。 そうすれば、より好きなことが出来るようになっていきます。







そしてこう覚悟を決めていれば、不測のアクシデントにも、挫けることはありません。



(つづく)

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