1000年後へのブログ 氷河期世代のとらわれない暮らし

ある氷河期世代の、常識や過去の経験にとらわれない、暮らしいろいろを題材にしたブログです。

心の術の使い方・・・好きなことをする方法2


読まれる際は必ず①から読み進められて下さい。







『身近な人に対する責任感』





「自分の運命に責任を持っているのは自分のみ!」



そしてそれは他の人間にしても同じことです。





あなたが他の誰かの運命、人生の責任を負うことは出来ないのです。



親であれ、配偶者であれ、子供であれです。






しかし、自分に近い存在であるほど 「責任」 を感じ、介入しようとしてしまうでしょう。





が、そのことが 「時に死を選ぶほどの苦しみ」 を呼びます。






相手が遠い存在であれば、そこまでのことにはまずなりません。





だからこそ、自分に近い、大切に感じる存在だからこそ、手放さなくてはならないのです。



他者に対しての責任を果たすことを第一優先にしてしまう。




「いい人」 と言われる人ほどそうでしょう。






気持ちはわかりますが、しかしその一方で


「だからお返しに、私に対しても責任を果たしてほしい」 



という気持ちもあるはずです。





そして、思うようにお返しが返って来ないことに不満を募らせることも、きっとあるでしょう。






面白いですね。 




自分のことは後回しにして、相手のことを優先し、そして相手には自分を優先して欲しいと思っている。





「別に面白くないよ、それこそが美しい関係だよ」 



という考えが、世の中を支配していると思います。




しかし、あなたのことはあなたが期待するほど相手は分かりませんし、あなたも相手のことを相手が期待するほどに把握することは出来ません。



これが現実です。






今自分の頭に浮かんだ相手が、 「こしあんと粒あん」 どちらが好きか把握していますか? 



逆に相手はあなたの好みを把握しているでしょうか?




つまり、


 「相手に対する責任をそれぞれ果たし合おう」 



というやり方で、お互い満たされることは現実には難しいのです。




実際に男女の間、親子の間の深刻な危機というのは、この種の 「ズレ」 から生まれることが多いでしょう。





しかも、本当に相手のことを思いやっての行動ばかりなのかというと、そうでもないはずです。




「相手の希望に答えようとする」 のではなく、いつの間にか 「自分の希望を相手に押し付けている」 ことが多いことでしょう。





「相手のことを思ってこそ」 と言いながら。






実際に本人はそう思い込んでいるからこそ、悩みは深くなるのですが。







自分よりも相手に対する責任を果たそうとし、相手にもそれを期待する。


何故そんなことをしてしまうのか?



繰り返しになりますが、それは根底に 「恐れ」 があるからです。





「自分が好きなことをしたい!自分でやってみよう!」




しかし、失敗してしまったらどうしよう・・・。




そういった恐れが、自分を自分の人生と直接向き合わさせず、自分の運命に対する責任を持とうとせずに、誰かに責任を任せようとさせるのです。






そうであれば、思うようにいかなかったとしても自分で責任を負わなくて済む、もしくは連帯責任に出来て、痛みを抑えられる、そういった考えがあるのです。





それで自分の好きなことではなく、 「誰かに」 やれと言われたことをしてしまう。



そして 「誰か」 に責任を取ってもらったと思いたい。




好きなことが無い、出来ないという人は、


「自分の人生に対する責任と直接向き合おうとせずに、『誰か』 に責任と取ってもらおう、それか 『誰か』 と責任を分け合いたい」



そう思っているところがあるのです。







結局、自分から自作農であることを放棄して、奴隷になるのです。



そしてだからこそ、その 『誰か』 に振り回され続けてしまうのです。



そしてその 『誰か』 は、これからも特に変わることはありません。







問題があるのは、その 『誰か』 ではありません。



自分自身です。






自分の運命・人生に対する責任を、他の誰かに預けよう、共有してもらおうと考えている自分です。





責めているのではありません。


ここが好きなことをすることへの入り口だからです。







今鎖でつながれている人はおられますか?  おられないでしょう。




「いや、でも家に帰ったら繋がれるんだ」 




という人がもしおられるのなら、この後すぐに警察に行けばいいのです。






「いや、お前は知らないから気安くそう言えるだろうけど、オレが帰らないとかわりに弟が繋がれて、殴られるんだ」



と言って 「誰かのせい」、 この場合は 「弟のせい」 にしてはいけません。





そういった状況になった時に、どう考えて、どう判断し行動するかは、弟さんの責任であり、弟さんの領域なのです。



恩着せがましくせずに、好きにさせるべきです。




そういった経験からも学び、成長し、そこを乗り越えた時に、大きな自信を手にすることが出来るのですから。





そう、あくまでやるかやらないか、鎖でつないでくる 『誰か』 ではなく、警察に行こうとしない 「自分自身」 の問題なのです。



だからこそ、そう考えるからこそ、自分自身でどうにか出来るようになるのです。







自分の運命に責任を持っているのは誰か? 100%自分自身だと。


そしてそれは全ての人がそうなのだと。


他の誰かの運命・人生の責任を負うことは出来ないし、それは相手のものなのだと。



覚悟を決めることです。




これも心の技術です。







状況に振り回されずに、常に自由の身になり、好きなことをするには、ここは必ず通ることになる道です。



あなたは誰が何と言おうと、本当は好きなことが出来るのです。 


そして今までも好きなことをしてきているのです。






ここまでをまとめますと、


・人には何の義務も無い。

・神様がいるならば、人には好きなことをして欲しいと考えるはず。 宇宙は何も考えていない。

・不安があるから楽しめる。 でも多くの人は不安を感じないことを優先している。

・多くの人は「不安を感じたくない」という好きなことを、無自覚のまま選んでいる。 つまり好きなことをしている。

・他人を尊重し、自分を尊重すること、つまり好きにさせ、好きにすること。 縛りあうのではなく、認め合う事。

・つまり 「好きなことをする」 というのは 「非常に勇気がいる」 ことであるという事。

・しかし、自分の運命・人生の責任を放棄し、「するべき」 と言われたことをこなすのも、自分自身が好きで選んでいる事。

・問題はその自覚があるかどうか。

・自分の運命、人生のあらゆる出来事に責任を持っているか。


・そして他人の運命、人生を尊重できるか。


・そうであれば、好きなことは出来る。



ということです。









『好きなことに対する誤解を解く』


好きなことをする・・・少女漫画の様に、フワフワで キラキラ で虹色で甘い感じばかりではないのですね。






どちらかというと、着替えも持たずに歩いて旅行して回るような、ワイルドな感じです。



周りから 「非常識」 と言われようが、 「小汚いな、そして自分の事しか考えていない」 と言われようが、そんな事を気にしているようでは、好きなことは出来ないのです。









そうです。 

人は 「好きなこと」 について誤解している、よく分かっていないのです。 



だから出来なくもあるのです。









ここまで読んで頂いて、


「なるほど理屈はわかった。 人に義務は無いということも出来るだろう。 しかし、人がそれぞれ好き勝手にしていたら、世界は滅茶苦茶になるだろうから、好き勝手には出来ないし、させられないのではないか」


と思った人も多いと思います。







好きなことをすることについて、神様に対する罪悪感でも、宇宙に対する罪悪感でもなく、社会の一員としての社会に対しての罪悪感、第三の罪悪感です。



実際には、これを一番意識している人が多いかもしれません。






しかしそう思われた方は、今度は 「好きなこと」 を、少年漫画の様に 「飲む打つ買う喧嘩する」 の、欲望ままの ギラギラ した様なことだと勘違いしているのです。






 「好きなことばかりしていいとなったら、

嫁は毎日午後まで寝ているわ、朝から酒を飲んでいるわ、カタログショッピングで注文し続けているわ。

子供達も好きにさせておいたら、きっと一日中ゲームかメールしているわ、ジャンクフードばかり食べて、炭酸ジュースばかり飲んでるわ


オレは道路沿いの早寝の爺さんが目を覚まそうが、夜更かしの婆さんが朝方に目を覚まそうが気にせずに爆音マフラーで走り回って、前の車は煽り放題、スピード出し放題、道路にタイヤ痕を付けてもオイル垂らしても気にしねぇ」







それは本当に好きなことではないでしょう?






というか、むしろそういったことは、


「日常的に好きなことが出来ていない人間が、その反動でやること」


であり、


「中毒」



です。







本当に好きなことをしていたら、もったいなくてそんな中毒的な行為に時間もお金も使いません。



周囲を見れば、好きなことが出来ていない人ほど、中毒的なことをしているでしょう。





ですから、経済の活性化の視点から見れば、人に好きなことをさせないで、その反動で消費させ、中毒にした方が効率がいいのです。



好きなことと、反動的行為や中毒は違うものです。



「好きなこと」  自体は悪いことではないのです。






問題なのは、


「何を」 好きなこととしているか、 なのです。




「いい人」 ほどここを混同しないでください。














『好きなことだけでは社会は回らないのか?』


繰り返しますが、殆どの人は好きなことを誤解しているのです。


それも悪い風に。 




悪いことだと誤解しているのです。 

だからしようとしない、悪いことだから、出来ないのです。



でもそれは誤解です。






ちなみに私が好きに時間を使えるようになって、家を建てて、車庫に好きな車もバイクも並べて、それで次はどうしようとなった時に、始めた 「好きなこと」 ことは道路掃除でした。



それまでも川とか公園のゴミは拾ってましたが、せっかくピカピカの車でドライブに行くのに、自分の家の周りの道が汚いのがダサくて耐えられない、せっかくなら綺麗な道から走り出したいと感じるようになったからです。






 満たされてみれば、そんなものですよ。


中毒は満たされませんよ。



特殊な例ではないです。 そういう人に、私はよく会っていますから。






 何度か書いていますが、私が今の田舎に来て最初に始めたアルバイトはスポーツクラブの風呂とトイレ掃除のバイトでした。



この話やゴミ拾いの話は「苦労話」 として 「好意的」 に受け止められたり、 「偽善」 として反発を買うことが多いのですが、私は 「苦労話」 をしているつもりも 「美談」 を語っているつもりもありません。


(読むことで自分も拾うようになる、少なくとも捨てるのはやめて「衛生の神様」に愛されるようになったらいい、という気持ちはありますが)




単に掃除が、綺麗にすることが好きだから選んだという 



「私が私の好きなことをした話」 



です。  





清掃業に従事する人で、私の様に単に好きでやっているという人は多いと思います。








言いたいのは、人に好きにさせていたら誰も汚れ仕事をやらなくなるから、すべきことを決めて、するべき、させるべきだ、というのは視野の狭い考えだということです。





 私の様に汚れ仕事が、汚れ仕事も、というか 「綺麗にする、綺麗さを維持する仕事」 が好きな人間はちゃんといるのです。



「汚れ仕事もすべきだ」 



などと言う人は、汚れ仕事に偏見を持っているのです。





そういった偏見が、人を特定の仕事から遠ざけるのです。 



だから 「すべき」 と言って、させなくてはいけなくなってしまう。



それに誰もが避ける役割があったからといって、それならそれで各人が自分の分は自分で処理するといった新しい形が出来ます。





そこで社会がまた進歩・進化するのです。


むしろそれが自然な形です。






私がせねば、誰かにさせねば、などと考える必要は無いのです。




それぞれが、好きなことをすればいいのです。





ここまでが、神も宇宙も 「人には義務があり〇〇すべき」 とは言っていない、そして人間社会の一員としての立場から考えても、何かをせねば、させねばと考える必要は無い。


好きなことをすればいい。 



その 「後ろ向きな」 方向から見た理由でした。











『好きなことをした方が良い前向きな理由』


では今度は、明るい 「前向きな」 方から見た理由を考えてみましょう。




 一度書いた話ですが、


車で旅行中に通行止めで付近で一泊することになった。

近くには、人が 「するべき」 と思ったことをそれぞれ仕事にしている 「するべき村」 と、それぞれが好きなことを仕事にしている 「好きなこと村」 があったと。



「好きなこと村」 のパン屋はパンを作るのも食べるのも好き、ガソリンスタンドの店員は車の整備とガソリンのにおいが大好き、消防士は消防車とレスキュー訓練が大好き。






あなたはどちらの村に泊まった方が安心出来ますか、楽しめますか?







そう、単純に好きなことをするのは強いのです。


その人の能力が発揮されるのです。



人を喜ばせることも出来るのです。








では自分自身もそうされたらいいでしょう。 


好きな場所で、好きなことをしてください。





そしてそこで出会う人に笑顔で接してください。 



そうすれば多くの人の助けを得られて、どんどん運命が好転していくでしょう。







 好きなことをしていれば、簡単ですよ。


でも好きでもないことを、すべきと思ってやっていると、とても難しい。



難しいことだから、結局のところ続かない。 


難しいことだから、どうしても不自然になる。


難しいことをしているから、他のことまで手が回らなくなる。




 好きなことをすればいいのです。




簡単なことは、見えにくいものです。 





 特に、



  「人は好きなことをした方が上手くいくし、他人も喜ばせられる」 



しばらく考えてみれば当たり前のこの理屈は、わざと見えにくくされています。








「人に好きなことをさせずに、自分がさせたいことをさせるために」



わざと見えにくくされているのです。






 失業保険の様な、お金ををもらう手続きの殆どが、わざとわかりにくくなっているのと同じです。







 私も最初は見えなかったのですが、掃除という好きなことを黙々としているうちに、そういったことが少しずつ見えるようになっていき、もっとシンプルに好きなことで自分を活かして、まわりも楽しませようという気持ちが強くなりました。






そうして新しいことも始めてみると、やはりそれも上手くいくのです。


なにしろ自分が好きなことだけに、深い知識と愛を持ってことにあたりますから、当然です。




それは相手にも伝わるんです。 



 皆さん愛のある仕事をされる事にけっこう飢えてますから。





 「この人は愛のある仕事をしているな~」



と感じる人に、最近どれくらい会いましたか?







きっと少ないでしょう。



少ないものには、それだけで価値が出るのです。






だから、好きなことを仕事にして、愛のある仕事をして、価値を作り出してください。




私の場合は、まず空手を教え始めることから始めて、喫茶店を始めて、喫茶店を使って塾も始めて、どれも上手くいきました。





もちろん何を持って上手くいったとするかは人それぞれですけどね。




どれも始める前はあれこれ言ってくる人はいました。でもそんなの関係ないですよ。




だって上手く行ったかどうかを決めるのは、自分の基準で決めることであって、彼らはその私の基準を知らないのですから。







こうやって自分が好きなことで、人を喜ばせて、それが上手くいくとですね、世界がすごく素晴らしい場所だということに気づいて、感謝出来るようになってきます。



そして誰だって感謝する相手のためなら、 「義務感」 なんてなくても何かしてあげたいと思うじゃないですか。






 世界に対して、そう思って行動するようにようになるのです。





 私の場合は、ゴミ拾いが本格化したわけです。


こういったことを皆が始めたらどうなると思いますか。



地球は楽園に近づきますよ。






人が好きなことばかりしても、世界が滅茶苦茶になったりは決してしない、これが前向きな方の理由ですね。



そして義務感からでなく、好きなことで世界を楽園に近づけられるようになっていった時に、人間はまた一歩前に進めるのです。








だから伝わったでしょう! 好きなことをした方が良いのです。





 好きなことをすることに罪悪感を持つ必要は無いし、好きなことをする方が本人にとっても周囲にとっても幸せをもたらすのですから。






 好きなことをしていいのです。



好きな車に乗ってください!






神様は好きにしてと言っている、宇宙は何も考えていない、社会の一員としても好きなことをしていた方が良い。



では、どうやって好きなことをしていくかです。









「好きなことをする方法」



そのためにまず必要なことは、


「好きなこと、したいことを細かい所まで明確に、はっきりさせることです」


とにかくこれです。



ではまず好きなこと、してみたいことを今すぐに3つ書いてみてください。



                                                  
1・                               


2・


3・





ポンポン書けそうですか?



書けた人は素晴らしい。 どんどん実行に移されてください。






すぐに書けなかった人は、


「何故書けないのか?」



そこのところを考える必要があります。








好きなこと、したいことが書けない、何故なのか?



好きなことが出来れば幸せ、それはわかる。 





でもその好きなことが何か、それが自分で分からない。









好きなこともせずに、どうやって幸せになろうというのでしょうか?




ではいったい今は、何をされているのでしょうか?






おそらく義務的なこと、それか 「誰かがあなたにさせたいこと」 をこなして、こなそうとしておられるのでしょう。






そうです。 



あなたが自分が好きなこと、したいことを自分で決めておかないと、誰かに決められてしまうのです。





ですので決めてください、「好きなこと、したいこと」 を。









そうでなければ、 



 「自分は好きで義務をこなしているのだ、言いなりになっているのだ、だからこれで良いのだ」



  とはっきりと認め、現状に感謝してください。





『私は自分が好きで義務をこなし、人の指示に従っているので、既に十分幸せです。 だから愚痴も言わないし、社会批判もいたしません』



  署名                        印





こうハッキリ覚悟を決めて、感謝の態度を前面に出すようになれば、間違いなく周囲の評価は上がり 「可愛がられる」 ようになると思います。







しかしそれで満足しようと思う人は少ないでしょう。


人の言いなりの人生は嫌だ。



でも自分の好きなこと、したいことはわからない。





それか、


分かっているけれど、実行に移せない。







言いましたが繰り返しますが、好きなことに対する 「罪悪感」、そして 「恐れ」 があるからです。




怖いから、行動するどころか、口に出すどころか、自分の中で考えをまとめることも出来ないのです。



その結果、行く当てもなくただ成り行き任せに彷徨ってしまうのです。







この 「恐れの気持ち」 を乗り越えられるかどうかが、これが好きなことを出来る人間になれるかどうかの境目です。








そうです。


好きなことをするために必要なのは、 「お金や時間」 などではなく、まず 



「勇気」 



なんです。






その 「勇気」 が出なければ、「忍耐」 することになるのです。





「勇気」 の対義語は 「臆病」 なのかもしれませんが、





 「勇気を出す」 の反対は 「忍耐する」 




になると私は思っています。







だから私は人の忍耐話に耳を貸しません。











頭の中で考えをまとめる勇気、


言葉に出して宣言する勇気、


人の反対や批判を乗り越える勇気、


実際の行動に移す勇気、


必要ならば方向転換する勇気、



挫けそうになった時も継続する勇気、




そして自分作り上げたものを放り出して、また新しいことを始める勇気。









いつまでも新鮮な気持ちを持ったままで、好きなことを次々していく人間には、結局のところ勇気はどこまでも必要なのです。






しかし 「勇気だ!勇気だ!」 と叫ばれても、なかなか行動には移せないかと思います。


もっと具体的に、一つ一つ見ていきましょう。



(つづく)

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