心の技術・・・感謝の壁1
感謝することは良いことだ。
感謝は大事だ。
こう言われて、
「そんなことねぇよ」
と、人前で堂々と反論する人はまずいないでしょう。
「感謝」
と書かれたシールを張ったりしている人もしばしば見かけますね。
それはもちろん 「感謝」 は 「良いこと」 だと思っておられるからでしょう。
シールまで貼って 「感謝」 を主張している自分は 「良いことを主張する良い人」 だと主張している部分があるでしょう。
「悪いこと」 だと思っていたら、もちろんアピールしないでしょう。
からかっているわけではありません。
自分が良いと思っていることを主張することは、それが何であれやったらいい、やるしかないのだから、と私は思っています。
ではここでは、
『感謝、感謝することの何が具体的に良いのか』
『しかし何故に感謝することは難しいのか』
その点について書いていきたいと思います。
「感謝」
というのは、武道の
「形(型)」
に似ているところがあると思います。
「大事だ」
とは誰もが言う。
しかしどう大事なのか、正直に言うとよく分かっていない。
そして実際には、ないがしろにしている。
でもそのことを公言することは、なにかとても恐ろしく感じさせられるものがあり、出来ない。
形といっても一括りには出来ませんが、ざっと説明します。
形(型)には1人で行う「一人形」、2人で行う「二人形」、それ以上の人数で行う複数形などがあります。
簡単に言いますと、
「相手がこう攻めてきたら、こうやりかえす」
というのをやっているのです。
2人で行う二人形の場合は、右が攻めて来て、左が反撃する、と素人目にも分かりやすいです。
これが一人形になると、攻めてくる側と反撃する側を一人二役でこなす、もしくは攻撃に関しては脳内補完して、反撃の部分だけ一人で行うなどのパターンがあるので、素人目には何をしているのか、分かりにくくなってきます。
そして空手の形(型)で目立つのですが、
「相手がこう攻めてきたら、こうやりかえす」
というもの以外に、
「体の使い方のコツを覚えるための動作、鍛錬のための動作」
というものも混ざっています。
こうなってくると、よほど運動に詳しい人でない限り、素人目には理解不能になってきて、
「踊り」
に見えてきます。
そして実際に、
「踊り、表演の要素」
というのも入っているのです。
そうしないと、一般の人に対するアピールが弱く、普及が進まなかったからです。
ある意味、素人が見て 「うわぁ!凄い!」 と思うような動作というのは、
「素人にも見えてしまうような動作」
でもあります。
また本来は、
「こう構えて、相手がこう攻めてきたら、こう反撃するつもりだ」
というのは、敵に絶対に知られたくない機密事項だったわけです。
なのでそれを隠すための要素も入っており、しかもそのことが正確な伝承を難しくしたため、本当になんなんだかよく分からなくなってしまった、部分も沢山あります。
ですので、ここでいう形とは、
「相手がこう攻めてきたら、こう反撃する」
をシンプルに2人で行う 「二人形」 の話として進めていきます。
しかしその比較的現実的に見える二人形ですら、練習していくうちにこう思うようになるのです。
「これ意味が無くない? だって実際にスパーリングしてみると全然使えないんですけど・・・」
と。
でもそれは言いにくいことなので、実際にスパーリングまで行う流派・団体の選手は、
「形稽古は形稽古、スパーリングはスパーリング」
として、
「お飾り」
的に形(型)稽古を扱うようになっていきます。
こういった形稽古の意味について、明治から戦前にかけての大剣道家、高野佐三郎氏が分かりやすいシンプルな言葉で文章にまとめておられたのを後になってみて、非常に納得がいきました。
こういった内容でした。
「形稽古の意味」
・正確な構えを身につける
・正確な動作、太刀筋(攻撃のライン取り)を身につける
・相手との間合いを掴めるようになる
・相手との呼吸を合わせる力を身につける
ものである。
そうやって身に付けたものを、実際の戦いの動きの中に活かしていきなさい、と。
こうシンプルに説明されてからは、形に対する崇めなければならないような感情は消え、積極的に稽古に取り入れていくことが出来るようになりました。
吉井で馬庭念流の形稽古を見る機会があったことも、良い影響を受けましたね。
実際に子供たちが広い範囲の技を覚えるのは、スパーリングだけをやっている場合よりも早かったと思います。
私が「体面」を捨てて、地味でも本当に使える動作だけにしたのもありますが。
「形」(型)の持つ意味をシンプルに喝破した高野佐三郎。
何故、他の人には言えなかった、言えないことを高野佐三郎氏はハッキリと言えたと思われますか?
形の意味をあまりに明瞭にしてしまう事は、形の
『神通力』
が消えてしまう事につながります。
何だかよく分からないからこそ、相手に必要以上の恐れを抱かせることが出来ますし、弟子達も崇めてくれます。
ですから形(型)の意味は曖昧なままにしておいた方が得だと考えている人が多いのですが、高野佐三郎氏は実力も実績も人望もあったので、そういった
『神通力』
に頼る必要が無かったからです。
お経と一緒です。
意味が分からないからこそ、ありがたがってもらいやすいのです。
お経なんて、葬式や法事といった時にだけ、皆と一緒になって意味も分からないまま
「じ~」 「ぞ~」 「な~」 「む~」
と唸っている人が殆どでしょう。
何故にお経を現代語訳しないと思いますか?
お経の内容というのはこういったものです。
『世の中って厳しい、生きるって辛いと感じるよね・・・。
でもね考え方一つで楽になることは出来るんだよ。
そう、全ては 「空」 だからさ・・・』
つまり、
「大昔の自己啓発本」
です。
そう、オレが日々セッセと書いているようなことです。
皆が理解出来る文章にしてしまったら、
「ここはもう今の時代にはあわないですよね?」
とか、
「ここはこう表現する方が読み手に響くでしょう?」
とか、いろいろ突っこまれて大変でしょう。
なにより、お経の持つ 『神通力』 が消えてしまいます。
現代語訳したお経を唱えても、幽霊が逃げてくれる気はしないでしょう?
だからやらないのです。
でも、時代に合わなくなって来ていたとしたら、その部分は変えていったらいいと思いませんか?
より上手い表現が出来るようになったら、そこも変えて磨き上げていくべきだと思いませんか?
それでこそ仏教も前に進むし、なにより人間が前に進めると思いませんか?
「お経の意味など解らなくても、信心を持って唱えていれば効果はあるのだ!」
という考え方も、まさに形(型)と同じですね、昔からありますが、オレはそれこそ人を馬鹿にした話だと思います。
現代のお坊さんも、それぞれ自分の経験をもとに、自分の接する人を対象に
「創作近代お経」
を書いたらいいと思います。
でもそれは宗教の権威を失わせることになるから、決して許されないでしょう。
だからお経ではなく、エッセイや哲学書を書いているお坊さんは結構いるわけですが、それでもやり過ぎると最悪の場合 「破門」 です。
そうなると、宗教を名乗るのを止めるか、独立して 「新興宗教の教祖」 として再出発するしかなくなってしまいます。
歴史と影響力のあるところにずっといた身からすると、ずいぶん厳しいことに感じられるでしょうね。
でもその時こそ宗教者として本当に生きている感じがするでしょうし、そういった経験は大きな学びとなるでしょう。
さて 「感謝」 です。
感謝の何が良いことであって、そして実際の自分の生活にプラスをもたらしてくれるのでしょうか?
まずそこを考えていきましょう。
(つづく)