1000年後へのブログ 氷河期世代のとらわれない暮らし

ある氷河期世代の、常識や過去の経験にとらわれない、暮らしいろいろを題材にしたブログです。

心の技術・・・感謝の壁5










自分を愛する。



自分を認める。



自己信頼。








それが無いと、他者を認める、世界を肯定することもままならない。



つまり感謝することがままならない。











感謝の感情の湧く状態こそが幸福である、がオレの幸福の定義ですが、それに従うと



「自己信頼が無いと幸福になることもままならない」



ということになります。








 



考えてみれば、自分を認めない、自分を愛さない、そんなことは許されないし、許さない、という意識でいて、



「でも自分で幸せになりたいと思っている」



というのは不思議な話です。











「だから、誰かに幸せにして欲しいと思っている。 誰か私を認めて、愛して、許して」



というのなら話は通じますが・・・。






高速道路の制限速度は100キロなのに、速度リミッターは180キロで効くようになっていることを国が許していることくらいに不思議です。













「ラッキー!」 と感じるようなことがあれば、その時は幸せを感じ、




「アンラッキー・・・」 と感じるようなことがあれば、その時は不幸と感じる。






それでは受け身のまま、成り行きに翻弄される状態が続きます。








だからほとんどの人は 「不安」 の中に生きていて、不安だからこそ絶えず 「不足」 を訴えているのです。









そう、



「不足を訴える」


つまり感謝していない、不安の中にいる、不幸な人は、



自己信頼が無い、自分を愛していない、自分を自分自身で認めていないから、



「不足を訴える」



のです。








そう、あなたが愚痴っぽい・批判的なブログを書いているとしたら、それは周囲が悪いのではなく、あなたが弱いからなのです。



















仮面ライダーのバイク、サイクロン号のブレーキは旧式のドラムブレーキでしたが、仮面ライダーがそのことについて不足を訴えると思いますか?



仮面ライダーはそんなことは言わないでしょう。





同じ様に 「バットモービル」 のリアサスペンションがトラックと同じリジッド形式だったとしても、バットマンはどーこー言わないでしょう。









そう、自分自身がスーパーマンだと自分で認めているなら、周囲に文句を言う気になどならないのです。













自分自身を認めることが出来ていれば、自分の子供の能力に不足を感じることは無いのです。




自分を愛せていれば、伴侶を鬼嫁、などと呼ぶことは無くなるのです。







自己信頼があれば、マスコミも、政治も、社会も、起こる出来事全てを肯定して、自分を今すぐ活かせるようになるのです。











『しかし大人は、自意識によって牢獄に放り込まれたようなものだ。

その行いや言葉が称賛を浴びることにでもなれば、たちまち囚われの身となり、共感や反感を抱く何百人もの人々の目にさらされて、今度は自分がどう思われるかを気にしなければならなくなる。


人は彼の掲げる旗印に新しい支持者が加わるほどに弱くなる。

・・・ラルフ・ウォルド―・エマソン』









『善や悪はただの名目に過ぎない。

正しいものはただ一つ、私の性質に従っているものだけだ。

不正なものはただ一つ、私の性質に逆らっているものだけだ。


・・・ラルフ・ウォルド―・エマソン』






この一文から、多くの思想の流れが生み出されていて、その中には「神の言葉」とされているものもあります。


だからあえて自分までが書くことのなのか、考えたこともあるのですが、さまざまな段階に合わせた、多くの入り口があった方が良いに違いないという確信から、書き続けてきましたし、書き続けていきます。









何度か書いていますが、 「善」 や 「悪」 というものがただ存在するということはありません。



自分の目的に対して、「善」 であり 「悪」 があるというだけです。




楽にハンドル操作をしたい、という目的から見ればパワーステアリングは善であり、


純粋に操作を楽しみたい、という目的から見れば悪です。







自分を認めずに、不足を訴えることが 「悪」 だとオレは責めたいという話ではありません。


そんな危険なことをしなければならないと感じる理由はオレにはありません。










ホイホイと好きなことをしていきたいのであれば、そういったことは


 「悪」 


であり、避けなければならない、という話ですこれは。










いくら不足を訴えたところで、何も変わりはしません。





「金が無い」


と不足を訴えて、


「じゃあ給料上げてやるよ」


と言われた人はいるのでしょうか、いないでしょう。






せいぜい出先で知人から、缶コーヒーか食事をおごってもらえた程度ではないでしょうか。



それを3回やったら、交友関係に影が差すでしょう。









「政治が悪い、社会が悪い」



と言うのにしても、それで良くなるのでしょうか?





そもそも一体いつ何処の時代と比べて 「悪い」 と判断しているのでしょうか?








オレも満員列車のなかで、週刊誌の中吊り広告を見上げていた頃は、


「政治も社会もなんて悪いんだ・・・」


と思っていましたが、こちらに来て市議会・県議会・国会議員と知り合う機会に恵まれてみると、みんな支持者個々人の我儘を上手く抑えながら、皆にとってベストと思う方向に何とか持っていこうとしている人ばかりでした。



少なくともオレが会った範囲では。








それぞれが、自分の頭の中に描く政治や社会と違うと感じたというだけで、政治も社会も、今迄もこれからも、常にこんなものはないでしょうか。












その中で、


「自分がどう変わって、何を次々にしていくか」


というゲームです、これは。







そう、


「世界の『悪』を指摘して変えることはなかなか出来ないが、自分が変わることはすぐに出来る」


そう考えることが、好きなことをしていく上では


 「善」 


なのです。








変わることは、すぐに、出来ます。



今すぐに自分自身を認め、

他者や世界を肯定し、

感謝する。





感謝とは、意識を向けた対象から、自分を最も活かす最良の部分を切り出すこと。




切り出した自分の最良の部分を、与えられた環境の最良の部分を活かして輝き、世界を明るくする、それは、すぐに、出来るのです。









世界に明るさが足りないと思うなら、すぐに、やってください。








変身の時が来た!


あなたが、仮面ライダーなり、バットマンなり、海阪 譲なりになる時だ!



(つづく)





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