1000年後へのブログ 氷河期世代のとらわれない暮らし

ある氷河期世代の、常識や過去の経験にとらわれない、暮らしいろいろを題材にしたブログです。

「宇宙の声」系の話・・・18


宇宙の声が聞こえなくなった。




つまり自分が分からなくなった。









「あぁ、『宇宙の声』とかって、つまり自分の考えの事ね」


と思われたでしょう。





たしかにそうです。





しかし、



自分は宇宙、宇宙は自分


自分の意識・感情は宇宙の意識・感情であり、宇宙の意識・感情は自分の意識です。



その境目は、あるようで、ないのです。





私達の意識・感情は一つではなく、何層にも重なり合いながら、宇宙まで、つながっているのです。



「動物の飼い方」 


みたいな本を読むと、


「動物に感情は無く、ただ状況に反応しているだけです」


ということがまだ当たり前のことの様に書いてあって、私はドンびきします。






飼い主が体調を崩した時に、猫が 「お見舞い」 に来るのは、


「ただいつもと違う状況に対し、確認しにきているだけ」


というやつです。



それはペット業界が 「行動心理学」 のような古い学問の影響をまだ強く受けていることと、単にペット・動物業界関係者などは、



「そう思って動物と接していないと、やっていられないから」



というのが理由だと思います。



私が日々草木と接していても、草木の事は何も知らない様に、生き物としての動物の事を、よく知らないのでしょう。






動物には感情があります。





それを否定する人は、ここにおいても少数派でしょう。





一方で昆虫については、私は山の中で暮らすようになるまで関心を持ったことは無く、むしろ苦手でした。


カブトムシを飼ったことすらなかったです。



蚊を見つければ叩くし、ゴキブリを見たら嫌だと思うし、その程度でした。







しかし恵まれた環境の中で、多様な虫たちと、近い距離で暮らすようになってみると、


「虫にも感情がある」


ことを認めざるを得なくなりました。





ここで 「恵まれた環境」 に下線を引きましたが、ここは大切です。



空箱の中に、生き物と餌だけ入れたのでは駄目なのです。


そんなでは、虫の感情がわかるわけがないのです。





そうでしょう?


もしあなたが捕えられて、6畳間程度の箱に入れられ、食料だけ定期的に出てくる状態に置かれたとしましょう。




最初は何とか脱出しようともがくはずです。


しかしそのうち絶望するか、エネルギーの消耗を抑えようと決心するかで、食料を摂取するなど最小限の、


「無感情に見える動き」


しかしなくなることでしょう。






それを見た観察者に、


「こいつに『感情』なんて無いな」


と判断されたとしたら、どう思いますか?








とはいえ、自分も山の中で暮らすまでは、昆虫に対してはそれくらいの認識でしかいませんでした。



むしろ、オートバイや車など


『機械の意識』


の存在を感じることはありましたが。






しかし山の中で、虫にとって恵まれた多様な環境の中で過ごすようになり、その認識を変えざるを得ませんでした。




頻繁に恐れ、


時に怒り、


まれに遊び、


ある時は孤独を好み、


ある時は寄り添う相手を求める、



虫にも意識が、感情はあります。










「それはあなたの意識の反映だ」


と考える人はそれでいいです。



その人の世界はそうなのです。






私の世界は違う。


これは私の世界の話です。









「意識はどこまである?」





では意識は どこまで あるのでしょうか。



虫にもあるのであれば、鳥にも魚類にも爬虫類にもあるでしょう。


蛛形類、蜘蛛、地蜘蛛などはかなりフレンドリーな性格のものもいて、朝挨拶にきたり、外出についてきたりしたりするのもいます。





ごく小さい生き物にもあるでしょう。


草木にもあるでしょう。






無いというのであれば、


「ここから先は無いと、『こういう理由』で線を引きました」


とその 「理由」 を教えてください。






白血球や血小板にも、それぞれにあるでしょうか?


あるでしょう。





おそらく白血球や血小板は、


「(傷があるところに)行かなければいけないと感じるんだ!」


と考えて自由意思で行動していて、


「人間本体に意識? あるわけないだろ!」


と思っているのではないかと思います。



人間がこれだけ激しく動いている地球の意識を認めない様に。








また我々に、


「個人の意識」 


以外に、


「家族の一員としての意識」、「組織・社会の構成員通しての意識」


があるように、



「臓器単位の意識」


や、もっと細かく範囲が重なったいくつもの意識もあるはずだと思います。








では、水や鉄、酸素など


 「無機物」 


はどうでしょうか?






私も最初は、


「有機物と無機物の間が、意識の有無の線を引くところになるのではないか」


と考えていました。





しかし詳しい方はご存知でしょうが、現在では


「有機物とは生体が産出す化学物質である」


という定義は過去のものになっており、有機物と無機物の線引きが難しくなっています。





「炭素が原子結合の中心となる物質の総称」


が現在の有機物の定義のようですが、これも何年後には変わっているかもしれません。





それに、


「炭素が原子結合の中心となる物質は 『意識』 を有する」


ということにはならないでしょう。



意識はそんなものではない。










結局のところ、


「どこまでいってもある」



という結論にたどり着くことになります。



だから、金属が集まってできた車やバイクに意識があっても、不思議ではないと思うのです。



それを感じたことがある人も、多いことでしょう。












では 「大きな方」 へはどうでしょうか?     




人個人より先に、意識は無いなどと、どうして線が引けるのでしょうか?




無いというのであれば、


「ここから先は無いと、『こういう理由』で線を引きました」


とその「理由」を教えてください。







よく言われますが、地球に意識はあるでしょうか?


私はあると確信しています。



山にも、海にも、台風にも、あるでしょう。





昔の一部の人は、


「大きいもの、動きのあるもの」


ほど意識があると考えていたのですが、納得出来る考え方だと私は思います。







そこまで大きいもの、そして


「形がはっきりしたもの」


ではなくても、先ほど一度出た 「家族、家の意識」 から始まって、


町内の意識

集落の意識

街の意識

地方の意識

国家の意識

大陸の意識

・・・


星の意識

太陽系の意識

銀河の意識

宇宙の意識



どこまでも重なりながらあると確信しています。






私達の体にいる白血球や血小板の意識が、私達の意識と重なっている、ある意味で同じものであるように、私達の意識は、宇宙の意識とつながっている、同じものでもある、これが私の考えです。



(つづく)

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