1000年後へのブログ 氷河期世代のとらわれない暮らし

ある氷河期世代の、常識や過去の経験にとらわれない、暮らしいろいろを題材にしたブログです。

心の技術・・・感謝の壁7






この話は、




『感謝、感謝することの何が具体的に良いのか』



『しかし何故に感謝することは難しいのか』




その点について書いてきたものです。














「感謝とは、意識を向けた対象から、自分を最も活かす最良の部分を切り出すことである」




だからこそ、最良の機会に恵まれ続け、最良の自身となり、最良の働きが出来る。






「感謝の視点で、自分自身を含めた全てを見るよう心掛ければ、自分自身と自分を囲む全ての良い所に目がいき、その良い所を活かして、良いことが次々に出来る、好きなことが出来る」










しかし、感謝することは実はとても難しい。





大きな 「壁」 がある。










その理由は、自分を認めることを許さない 



「自己信頼の欠如」 



であり、もう一つの大きな理由である、



「社会は、自分自身を認めること、自己信頼を許さない」



そのことの背後にも、それぞれの自己への信頼の欠如がある。









そして、



「人は現状を肯定していては、成長出来ない」



その 「恐れ」 が、人が感謝出来ない根底にある理由、



「壁」



である。












しかしその恐れは思い込みであり、





「人は感謝しながらでも拡大向上する」









だから今すぐに、



どんな状況にあるとしても、



まず自分で自分を認め、自己信頼を元に行動するぞと 「決心」 して、



自分自身を囲む世界も認め、感謝し、



気になったこと、好きなことに次々取り組んでいけばよい。











そして、その中からでなければ、真の自己信頼は生まれない。








というお話しでした。












この話は 「正しい」 話でしょうか?










「好きなことをするには」




という条件で考えれば、「正しい」 とオレは思っていますし、実際そうしています。











でもそれは  「オレの世界」  での話です。







一人一人、住んでいる世界は同じ様に見えて、実は違います。









バンジージャンプ中に 「紐が切れた」 経験がある人は、バンジージャンプは 


「危険なこと」 


である世界におそらく住むことになるでしょう。






一方で、バンジージャンプ中に 「神を見た」 経験がある人は、バンジージャンプは 


「神聖なこと」 


である世界にたぶん住むことになるでしょう。











「親」とは〇〇だ。



「友人」とはまる〇〇だ。



「学校」とは〇〇だ。



「恋愛」とは〇〇だ。



「仕事」とは〇〇だ。



「結婚」とは〇〇だ。



「子供」とは〇〇だ。



「生きる」とは〇〇だ。










こういうことが積み重なって、それぞれの「世界」が作られているのです。








それぞれの世界は 「土や水や火」 ではなく、それぞれの 「認識」 で出来ているのです。











「あなたの認識で、あなたの住む世界は決まる」




のです。







だから、選べばいい。





世界はあなたの「おもうがまま」です。











同じ様に、オレは人がオレをどう認識したとしても、それも相手が自分の世界で決め、選ぶことであり、それが相手にとっては正しいことであり真実なのだから、それでいいと思っています。










ただ、



「どう認識することで、そのことが自分にとってどういう出来事につながってくるのか?」



そこは考えて、「得」 な方を選んで欲しいとは思っています。












そして、


「起きた出来事の結果、認識を決める」



のではなく、 つまり 



「感謝してみて 『良いこと』 が起きたから、じゃあ感謝は良いことだ、と認識するわ」



ではなく、








「自分の 『信念』 で 『認識』 を決め、それに基づいて 『出来事』 を自ら起こして欲しい」






と思います。








そうでなくては。




心の技術・・・感謝の壁6

















感謝する。



それは自分自身や、自分を囲む環境といった、意識を向けた対象から、自分を最も活かす最良の部分を切り出すことであり、


だからこそ、最良の機会に恵まれ続け、最良の自身となり、最良の働きが出来るのだと、



好きなことが次々出来るのだと書いてきました。










そしてその為に、どうしても根底に必要なものは、




自分を認めること、


自分を愛すること、


自己信頼、




だと。










しかし、エマソンも言っているように、社会は何よりも自己信頼を嫌います。






「何よりも求められる美徳は皆に合わせることであり、自己信頼は嫌われる。


社会は真実や想像力ではなく、名前や習慣を好んでいる」



「世間に従わなければ、人々の反感を買って酷い目にあわされるだろう」












だから結局は、



「どちらにしますか?」



ということです。












自己信頼を基盤に、藪の中を野生動物のように裸で進むか。



運命や社会の、程度の差こそあれ、ペットになって過ごすか。 












あなたはどちらにしますか?













ちなみに、




「決断しない、深く考えない」




は必然的にペット行きになります。







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天は常に決断を待っています。




その決断に合わせて、物事を起こします







天は常に、人間の決断を額面通りに取るようです。



「お前はそう決めたみたいだけど、向いてないと思ったから少しこっちに寄せておいたよ」



というお節介な教師のようなマネはしないのです。





それではせっかく与えた人の自由意思を損なうことになり、天からすると 「NPC」 の反応を純粋に楽しめなくなるからでしょう。


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実際にやってみると分かりますが、藪を裸で進んでいくと、日毎に丈夫になっていきます。



体もそうですけれど、特にメンタルが。




それに次第に藪の方が折れてくれるようになりますね。









ペットだった頃は、よく風邪を引いていました。



風邪をひかないと休ませてもらえないと思っていたからです。




そして時間が経つほど、雑に扱われるようになっていったように思います。


















『自己信頼が難しい理由についての補足、そしてどうすれば出来るようになるのか』



についてです。









自己信頼が難しい理由について、それは書いてきましたように、一つは社会が自己信頼を許さないからです。





感謝させないのです。



自分自身や、周囲を囲む環境の良い所に目を向けさせないのです。



見出した良い所を、活かさせようとしないのです。








そうしておいて、自分がさせたいことをさせるのです。







何故なら、自分が不安を感じているから。



つまり、自己信頼が無いから。










「自己信頼が無いから、他者にも自己信頼させない」



「親が自分に自信が無いから、子供にあれこれ詰め込もうとし、子供はその親の自信の無さに気付いているので、そういう親のいうことを聞こうとしない。その子供の反応を見て親は一層自信を失う」



「強いコンプレックスを持つ評論家ほど、細かい差異を 「悪」 だと騒ぎ立て、大きな組織やメーカーはコンプレックスの強い奴らの意見なんて参考にならないよ、と無視する。するとよりコンプレックスが刺激され、論調がヒステリックになっていく」




という泥沼です。








ここを突き抜けていくにはどうするか?











それは周囲が、社会がどう反応しようが、 


「オレは自己信頼を基盤に行動する!」



と、



決心



し、実際に行動する人間が増えていくしかありません。











そう、オレと、あなたから! m9(^∀^) Yah!


















すると次の最後のテーマに行き着きます。






「それはあんたが強いから言えるんだ。 


あんたは暗に自分の強さを振りかざして周囲を威圧し、しかも内心では変わらない他者を 『否定』 している。



そういうやって自分を誇示し、自分の存在を確認しようとしている 『悪人』 さ。



世界は変わらないから、自分がさっさと変われと言いながら、今の自分を認めて愛せという、実は現状肯定主義者だ。





今の自分を認めないところから、人は変わっていく、前に進めるんだ!」



















オレにとって今の車2台は本当に 「愛車」 だなと思います。



オレはこの2台に対して、不足というのは何も感じていません。






デザインもこのままで完璧。


走りもこのままで完璧。


装備もこのままで完璧。




完全に現状を肯定しています。









しかし、完全に肯定しているからといって、何も変化を起こさないのかというと、決してそんなことはありません。







クーペを2台体制にして、片方の車高に上げ、カンガルーバンパーも取り付けてRV仕様にし、もう一台はギリギリまで下げて楽しむかもしれません。



軽トラックの荷台にオリジナルFRPキャビンを搭載して改造車検を取るかもしれません。



クローラー化するかもしれません。







むしろクーペをクローラー化、もしくは後輪2軸にするかもしれません。



マグナポリス38に限りなく近くなりそれはそれで格好良い!







というか、マグナポリス38を自作することに50歳代のエネルギーは全て使っているかもしれません。



クレーン車をベースにするといいのではないでしょうか?



たまりませんな。















「現状に不足を感じる、現状を否定するからこそ、その時初めて人は変化を起こす」




というのは不自由な思い込みです。












「自分を認める、自分を愛する、自己を信頼する、そんなことでは人は成長出来ない」






この考えが、自己信頼を難しくしている、感謝させない根底にある理由 「壁」 です。








そしてこれが、一般的には悲劇と呼ばれる状況を多く生み出しています。













しかし考えてみて下さい。




宇宙は 「オレ小さいな・・・」 と思って猛スピードで拡大しているわけではありません。





生き物も 「オレたち少数派だからもっと増えないと・・・」 と思って繁殖を繰り返しているわけではありません。






常に発展向上を求めるのは、世界の基本的な在り方なのです。







人もその中に生きているのです。










そのことを、よく考えて下さい。









不足や否定を起点とした動機など無くても、人は発展向上しようとするものなのです。















プレッシャーと 「毒気」 から自分を遠ざけて、「好きなこと」 について考え、それをすればいいのです。





次々と意欲と力が湧いてきて、様々なことに挑戦し、伸びていくでしょう。













そして同じように、好きにさせればいいのです。



その中から、自己信頼は生まれます。













オレが自分を認められるようになったのも、「弱い」 と感じたことからスタートして 「強く」 なった時ではなく、ただ好きなことをするようになった時でした。







世間はそう思っていないかもしれませんが、いくら強くなったところで、自分を認めることは困難です。



強い奴などいくらでもいて、昔と違い世界が舞台となった現在ではもはや天井知らず。




試合では圧倒出来た相手が夜中にアパートにやって来て、入念に灯油撒かれてから火を付けられたらもうアウト。



それに格闘関係者の立場など極めて弱いもの、収入はバイトだけしていた方が多いくらいで、社会からも警戒されるだけで、プラス評価などされはしない。











オレはそう思っていましたし、だからそれがオレの現実でした。






「弱い」 



という自己否定の動機を起点として強くなることでは、自己信頼は生まれませんでした。











それが出来るようになったのは、体を壊してサラリーマンを続けられなくなり、フリーターとしてバイト先で好きな掃除、「雑巾掛け」 を黙々としていた時です。







「オレは雑巾掛けは嫌いじゃない。 これをやっていることで、今一応食べていけている。

毎日結構楽しいし、幸せを感じるようになってきた。




・・・・・・・・・じゃあオレもうずっと心配いらないな!」










そこで初めて 「自己信頼」 が生まれたのでした。















もちろん強くなることで自己信頼が生まれる人もいるでしょうし、30代バイトとして雑巾掛けをすることで、速攻で鬱になる人もいるでしょう。





つまり、


本人が何をしたかではなく、

本人がどう考えてしたか、


なのです。













ですから、いろいろ考えながら、気になったことを実際にやっていって、


「それをすることで自分はどういう 『考え』 を抱いたか」



自分自身で一つ一つ試していく、



「やってみるしかない



のです。






しかない、のです。










手間のかかる作業ですから、不満を言いながら同じところをクルクル回っている、薄々気づいているのであれば、そういった時間はもったいない。





時間は平均寿命まで生きたとすれば、人生全体では割とありますが、その 「年代」 は結構短いのですから。




 (気づいていなければ、学びのための必要な時間です)







 (つづく)

心の技術・・・感謝の壁5










自分を愛する。



自分を認める。



自己信頼。








それが無いと、他者を認める、世界を肯定することもままならない。



つまり感謝することがままならない。











感謝の感情の湧く状態こそが幸福である、がオレの幸福の定義ですが、それに従うと



「自己信頼が無いと幸福になることもままならない」



ということになります。








 



考えてみれば、自分を認めない、自分を愛さない、そんなことは許されないし、許さない、という意識でいて、



「でも自分で幸せになりたいと思っている」



というのは不思議な話です。











「だから、誰かに幸せにして欲しいと思っている。 誰か私を認めて、愛して、許して」



というのなら話は通じますが・・・。






高速道路の制限速度は100キロなのに、速度リミッターは180キロで効くようになっていることを国が許していることくらいに不思議です。













「ラッキー!」 と感じるようなことがあれば、その時は幸せを感じ、




「アンラッキー・・・」 と感じるようなことがあれば、その時は不幸と感じる。






それでは受け身のまま、成り行きに翻弄される状態が続きます。








だからほとんどの人は 「不安」 の中に生きていて、不安だからこそ絶えず 「不足」 を訴えているのです。









そう、



「不足を訴える」


つまり感謝していない、不安の中にいる、不幸な人は、



自己信頼が無い、自分を愛していない、自分を自分自身で認めていないから、



「不足を訴える」



のです。








そう、あなたが愚痴っぽい・批判的なブログを書いているとしたら、それは周囲が悪いのではなく、あなたが弱いからなのです。



















仮面ライダーのバイク、サイクロン号のブレーキは旧式のドラムブレーキでしたが、仮面ライダーがそのことについて不足を訴えると思いますか?



仮面ライダーはそんなことは言わないでしょう。





同じ様に 「バットモービル」 のリアサスペンションがトラックと同じリジッド形式だったとしても、バットマンはどーこー言わないでしょう。









そう、自分自身がスーパーマンだと自分で認めているなら、周囲に文句を言う気になどならないのです。













自分自身を認めることが出来ていれば、自分の子供の能力に不足を感じることは無いのです。




自分を愛せていれば、伴侶を鬼嫁、などと呼ぶことは無くなるのです。







自己信頼があれば、マスコミも、政治も、社会も、起こる出来事全てを肯定して、自分を今すぐ活かせるようになるのです。











『しかし大人は、自意識によって牢獄に放り込まれたようなものだ。

その行いや言葉が称賛を浴びることにでもなれば、たちまち囚われの身となり、共感や反感を抱く何百人もの人々の目にさらされて、今度は自分がどう思われるかを気にしなければならなくなる。


人は彼の掲げる旗印に新しい支持者が加わるほどに弱くなる。

・・・ラルフ・ウォルド―・エマソン』









『善や悪はただの名目に過ぎない。

正しいものはただ一つ、私の性質に従っているものだけだ。

不正なものはただ一つ、私の性質に逆らっているものだけだ。


・・・ラルフ・ウォルド―・エマソン』






この一文から、多くの思想の流れが生み出されていて、その中には「神の言葉」とされているものもあります。


だからあえて自分までが書くことのなのか、考えたこともあるのですが、さまざまな段階に合わせた、多くの入り口があった方が良いに違いないという確信から、書き続けてきましたし、書き続けていきます。









何度か書いていますが、 「善」 や 「悪」 というものがただ存在するということはありません。



自分の目的に対して、「善」 であり 「悪」 があるというだけです。




楽にハンドル操作をしたい、という目的から見ればパワーステアリングは善であり、


純粋に操作を楽しみたい、という目的から見れば悪です。







自分を認めずに、不足を訴えることが 「悪」 だとオレは責めたいという話ではありません。


そんな危険なことをしなければならないと感じる理由はオレにはありません。










ホイホイと好きなことをしていきたいのであれば、そういったことは


 「悪」 


であり、避けなければならない、という話ですこれは。










いくら不足を訴えたところで、何も変わりはしません。





「金が無い」


と不足を訴えて、


「じゃあ給料上げてやるよ」


と言われた人はいるのでしょうか、いないでしょう。






せいぜい出先で知人から、缶コーヒーか食事をおごってもらえた程度ではないでしょうか。



それを3回やったら、交友関係に影が差すでしょう。









「政治が悪い、社会が悪い」



と言うのにしても、それで良くなるのでしょうか?





そもそも一体いつ何処の時代と比べて 「悪い」 と判断しているのでしょうか?








オレも満員列車のなかで、週刊誌の中吊り広告を見上げていた頃は、


「政治も社会もなんて悪いんだ・・・」


と思っていましたが、こちらに来て市議会・県議会・国会議員と知り合う機会に恵まれてみると、みんな支持者個々人の我儘を上手く抑えながら、皆にとってベストと思う方向に何とか持っていこうとしている人ばかりでした。



少なくともオレが会った範囲では。








それぞれが、自分の頭の中に描く政治や社会と違うと感じたというだけで、政治も社会も、今迄もこれからも、常にこんなものはないでしょうか。












その中で、


「自分がどう変わって、何を次々にしていくか」


というゲームです、これは。







そう、


「世界の『悪』を指摘して変えることはなかなか出来ないが、自分が変わることはすぐに出来る」


そう考えることが、好きなことをしていく上では


 「善」 


なのです。








変わることは、すぐに、出来ます。



今すぐに自分自身を認め、

他者や世界を肯定し、

感謝する。





感謝とは、意識を向けた対象から、自分を最も活かす最良の部分を切り出すこと。




切り出した自分の最良の部分を、与えられた環境の最良の部分を活かして輝き、世界を明るくする、それは、すぐに、出来るのです。









世界に明るさが足りないと思うなら、すぐに、やってください。








変身の時が来た!


あなたが、仮面ライダーなり、バットマンなり、海阪 譲なりになる時だ!



(つづく)