1000年後へのブログ 氷河期世代のとらわれない暮らし

ある氷河期世代の、常識や過去の経験にとらわれない、暮らしいろいろを題材にしたブログです。

心の技術・・・感謝の壁4



オレの私物は衣装ケース3箱に収まります。





昔、軽ワンボックスに持ち物の全てが収まったらカッコいいと思っていましたが、自分一人であれば、もう達成出来てますね。







 賞状やトロフィー、免状は既に捨てていて、また必要あるかもと思っていた防具やグローブ・ミット類も捨てました。



道着も、所属が変わっていることで何種類かあった黒帯も、みな捨てました。







「段位」について、自分の中では30代になって新しい稽古方法で腕を上げた時、ようやく10年以上前にもらった三段の壁を越えて四段だな、と感じました。




その後、ここで一本独鈷で道場を運営し、わりと起こる様々な問題を乗り越えた時、あぁ今なら五段位だな、と思いました。






 人は 「お山の大将」 をよく馬鹿にしますが、お山の大将には、お山の大将にしか分からない苦労が沢山あるものです。


自分が最終防波堤ですから。







だからその後、上部団体に加盟することになり、そこから五段を頂けることになった時、自分の中で違和感が無かったので抵抗無く受け取れました。








でも 今、改めて思うのは、



『自分の価値を決めるのは自分だけ』



ということです。









それを人に決めてもらおうなんて、もう自分は全く思いません。






 自分が決めなくてどうする?



自分が何段かなどということは、自分の基準で、自分で決めれば良いのです。










自分で自分の価値を決めることを 「恥」 だと思っている武道の世界。



気持ちの上ではそこから離れていたものの、「物」が残っていることに気付き、良い機会なので全て処分しました。










オレも昔はアメリカ人の 『武道家』 で、



「自衛武須流空手 創始者 ジェームズ・ワトソン十段(自称)」



みたいな人が、アクション映画の様に派手なだけの創作型を演武しているのを見たりすると、こういうのは本当に 「恥ずべきこと」 だ、我慢ならんなと感じたものです。











が、今はその 



「自己信頼」



の精神が素晴らしいと、皮肉でなく思います。






さすが、ラルフ・ウォルド―・エマソンを生んだ国だなと。



















みんなが自己認定で勝手なことを自称し始めたら、社会が混乱すると早速心配しておられるのですか?








自分に対する自分の認識が、良くも悪くも不当なものであれば、その時は、



 「天」 



が必ず調整してきます。



だからオレは心配しません。



そして、全く怖くないですね。









こういった自己信頼がないと、自由に好きなことは出来ません。






自分を認めること・・・



自己信頼



自己愛



自分を愛すること。







やはり最後はここに行き着きます。












聖書のレビ記19章18節に、



「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」



とあります。






のちにキリストがここを引用して問答する有名な場面があることもあって、広く知られた言葉です。











しかしそもそも、自分自身を今そのままで、愛せている人は殆どいないのです。



大学のクラスメートのオカマの北島君くらいですね、自分が会ったことがあるのは。








だから、隣人を愛せない。



「今そのままでは愛せない」 



と言う。










「お前はあれが足りない、ここが違う。 あれがあったら、ここが変わったら愛するよ」 



と言う。






そんなものは愛ではない。











持っていないのだから、与えられない。





自分を認めていないのだから、他者を認められない。









一方で、自分自身ではなく、他者に自分を認めてもらいたい。



その時に自分を認めようと思っている。









しかし、自分自身を認めていない人間を、他者が認めるということは決してない。







何故なら、他者が自分を認めたということも、結局は自分自身の認識の産物でしかないからです。











あなたが自分自身を認めていなければ、町中の人が平伏して



「私たちはあなたを認めます!」



と言ったところで、 





「これは大がかりな 『ドッキリ』 か何かに嵌められかけているに違いない!」




とキョロキョロするのがオチでしょう。










答えは出ています。




今このままの自分を、自分で認める、まずはそこから始めるしかありません。












するとそう、



攻撃されるでしょう。







間違いなく、あらゆる形で、社会的に殺してもいいくらいの、激しい攻撃を受けるでしょう。






「自分で自分を認める? 笑わせんなよ?w」



「本気なのか? 悪ふざけは止めろよ」



「・・・けしからんな、罰が必要だな」



「そんな 『悪い』 奴は! 殺してもいい!」







皆さんもそれを知っているはずです。



加担したこともあると思います。 オレもあります。








だから怖くて、出来ないでしょう。



分厚い壁です。











でも、そこを突き抜けていかないと、好きなことは、こうやって好きなことを書くことも、出来ないのです。









好きなことをするって厳しいですね。






でも実際に殺されるまで行くことは稀ですし、いつかは必ず死ぬわけですから。













時間は、考えている以上に限られています。






オレなんかも若いといっても、 



「冒険」 



と、やっていることを周囲が捉えてくれたり、自分自身がそう感じて楽しめるのは、たぶんあと数年です。


生きるだけなら、あと80年は生きるでしょうが。








今でももう既に、電車で若い女の子に声を掛けたとしたら、それはナンパには見られず、セクハラか犯罪の臭いが漂ってしまうようにはなっているわけです。





歳をとることは素晴らしい。



年代ごとの良さ、楽しみがあります。






でも一度通過してしまうと、そこへはもう戻ることは出来ません。







だからこそ今の自分を、今すぐにそのまま認め、今の時間を逃さず謳歌して欲しいと思って、力が入ってしまいますね。



 (つづく)

心の技術・・・感謝の壁3





この話は、



『感謝、感謝することの何が具体的に良いのか』



『しかし何故に感謝することは難しいのか』



その点について書いているものです。













4.自分を認めること







あなたは自分を認めることが出来ますか?



出来ていますか?



これが分厚い 『感謝の壁』 です。











自分を認める。




とても、難しいことです。








しかし、これが出来ていないと、自在に心から感謝をすることは出来ません。







 義務的に、



 「感謝だ!感謝だ!」 



と自分に強要するか、何か 



 『超★ラッキー』



っぽいことがあった時にだけ、



 「ありがてぇ、感謝だわぁ♡」 



と言えるだけでしょう。








常に、自分自身を含めた、意識を向けた対象から、自分を最も活かす最良の部分を



「自在に」



切り出していくことは出来ないのです。








 好きなことを次々にしていくことは出来ないのです。






食べたいものを食べることすら、大騒ぎなのです。












1・苦しみ否定


2・『正義』 否定


3・世界を肯定すること


4・自分を認めること






2.の 『正義』 に惑わされてしまう事も根深い問題ですが、時間が解決してくれる部分があります。



人は常に「正義」の旗印の元に操作されてきていることに、「正義」にエネルギーを注ぐほど、その分早く気付きやすくなるものだからです。




もっと言うと、年老いて膝もろくに上がらなくなって来た頃には、そういったことへの興味を自然と失っているでしょう。










 1.の 『苦しみ』 を手放せないことも、多くの場合は時間が、長い時間ですが、解決してくれることがあります。



やがて苦しみに耐えられない体になっていくからです。


 (最後まで苦しむことを捨てられない人は多くおられますが)








とはいえ、時間の経過によって 「正義」 や 「苦しみ」 を手放すことになった場合、その頃には好きなことは出来ない心身になっているでしょう。





その時に代わりに身に付けているのは、きっと捻くれた卑屈な精神です。










ですから、



「自分で意識して手放す」



ということが、やはりどうしても必要になってきます。










 一方で、



 4.自分を認めること





死ぬ間際になって、若干ヤケクソ気味に自分を、自分の人生を肯定するといったケース以外では、時間が解決してくれることも無いように思います。








また、



4.自分を認めること 


と 


3.世界を肯定すること



には複雑な関連があります。









多くの人は、



「人は他者(世界)から認められた時に、自分を認める」



そうしようとしています。






もしくは、



「他者(世界)の基準で、自分を自己評価しようとする」



この二通りです。








 自分で自分を認める、自分の基準で自分を評価するなど、とんでもないことだと思っています。







しかし自分を認めることが出来ていない人は、同時に、



「他者(世界)のことも心から認めてはいない」



ものです。








何故なら、



「究極的には、人にとって何よりつらいことは、他者の方が自分よりも優れていると感じること」



だからです。








 自分を認めていない人間が、他者を 「認める」 というのは、考えてみればおかしな話でしょう?





「お前は強いな!」



そうサラッと言える人は、



「でもオレだって強いぜ!」


「でもオレだって昔はそれ位強かったぜ!」


 「でもオレだって必ずそれくらい強くなってみせるぜ!」



それか、


「でもオレはモテるぜ」



そういった確信、自分を認める部分があるからこそ、そう言える、相手を認めることが出来るわけです。








しかし自分自身を自分で認めることが出来ない人は、それが出来ず、



「奴は才能に恵まれているから」


とか、


「あいつみたいに小さい頃から試合に出ていりゃ誰だって・・・」


とか、


「そもそも世の中スタートの段階からして不公平なのが問題で、まず現在の社会のシステムを・・・」



とか、匿名系のコメント欄ではよくこういった「批評」をよく見ますね、他者を認める、世界を肯定することが出来ません。












これは深刻な問題です。



 自分を評価した相手を、他者を、世界を、自分が認めていないのですから、他者(世界)に認められた、その基準に適ったと自己評価出来たいっても、それはそれで深い喜びを得ることが出来ません。






評価していない相手から評価されても、それほど嬉しくはないでしょう?




それでも、自分が何故満たされないのか、わからないまま、また同じ様に走り出してしまうのです。






つまり、ゴールに辿り着けないようになっているのです。












ですから、今この瞬間から、状況に関わらず、まず自分自身を認めなくてはなりません。





それも自分の基準でです。








どんな、どんな状況に今あってでもです。




「自分自身をまず認めること」



が必要なのです。







オレはあなたを認めない。



周囲の誰もあなたを認めない。




それでもです。









「認められれば、認める・・・」





少し脱線しますが、



これは 「時間とお金」 の関係によく似ています。





人はよく 「時間とお金があればやってみたい」 と言います。



それが本当かどうかはともかくとして (まぁ本当に時間とお金があればやってみたい程度のことなのでしょうが)、しかし殆どの人は



「自分の時間を切り売りしお金に変えている」



ため、何時までたってもその二つを同時に手に入れることは出来ず、結局出来ないままで終わってしまうことが多いわけです。




ジレンマと思われている部分です。











少し昔であれば、定年まで頑張り切れば、そのあと好きなことにお金と時間を回せる状況に至る人は割とおられたのかもしれません。




今もまだそうですね。



でもこれからは違ってきます。









とはいってもオレは悲観は全くしませんね。



オレが小さい頃は、男性は70歳を過ぎたら、見た目からして



「さぁ、いつお迎えが来るのやら」



といった感じでしたが、最近ではその位の年齢の人を見ても、



「確かにあと10年は持つだろうな」



という人が凄く多くなっています。







「時間」 は確実に多く手に入れられるようになっているのです。



「時間とお金」



どちらに価値があるといったら 「時間」 です。






また昔の人は今の人以上に不自由な 「考え方」 が染みついていました。



今の人もやたら不自由な考え方をしているとオレは思っていますが、間違いなくそれ以上でした。









「考え方」 が自由になっていないと、お金と時間があっても



「悪い出来事や不足への備え」



くらいにしか使えないですから。






実際に 「定年まで頑張ったから、今は好きなことしてま~す」 って罪悪感も感じさせずにサラッと言う人に会うこと、どれくらいあります?






だから、今のように 「考え方」 の幅がどんどん広がっている時代、そして 「時間」 が増えている時代を生きられている方が、オレは豊かで自由だと思いますし、まったくもってありがたいですね。



これからもエンジョイさせてもらいます。














感謝ってこんなことです。







「幸せなら手を叩こう」



って歌がありましたが、手を叩いたってしょうがない。










幸せなら、つまり感謝を感じているなら、自分の命を、与えられた環境を活かしきって、輝いてくれ、



「世界を明るく照らしてくれ!」



ということです。







あなたは感謝を、なにか大きなものを恐れながら、恐縮してみせることだと思っていたのではないでしょうか?











一度書きましたが、



この世界は、





・何らかの科学的偶然の連続で出来た⇒だから宇宙に意志など全くない





・何らかの意思が作りだした⇒その意志の持ち主が人の考えるところの神であり、その神


「人間より人間が出来ているであろう神」


は人間に対して「オレのことなんて気にしなくていいから、生き生きと楽しんでよ!」くらいに考えている





このどっちかです。












あなたが恐縮して、縮こまり、そのことで喜ぶ相手などいないのです。




広い宇宙の中で、大多数の人間くらいのものです。
















のびのびと、あなたの考えを語ることです。



のびのびと、今の環境と、自分を活かして、したいことをすることです。






感謝しているならば。
















今回は、



「4.自分を認めること、これが出来ていないと 「3・世界を肯定すること」 も出来ない。


そして感謝することもままならない」



についての説明でした。






次回は、



「ではどうやって自分を認めていくか、そもそも何故自分を認めることが出来ないのか」



といった話になっていきます。



(つづく)



心の技術・・・感謝の壁2



さて感謝についてです。



 感謝の意味は私の中ではこうなっています。







「感謝とは、意識を向けた対象から、自分を最も活かす最良の部分を切り出すことである」














私の愛車の一台。



昭和60年製の軽トラック、サンバーです。










私はサンバーに対して感謝で接しています。





サンバーの性質・特質から、自分を最も活かす部分を切り出し、





それを活かして自分が考える最良の機会に恵まれ続け、



自分が考える最良の自分となり、



自分の考える最良の働きが出来ているのです。



ありがとう、サンバー。









しかし、これが分かってもらえることは、まずありませんな。







私がこのサンバーに乗ることには、常に「壁」が立ちふさがり続けています。









それが、




「感謝の壁」



です。













この話は、




『感謝、感謝することの何が具体的に良いのか』



『しかし何故に感謝することは難しいのか』




その点について書いているものです。















私はこの土地に対しても感謝で接してきました。



「感謝とは、意識を向けた対象から、自分を最も活かす最良の部分を切り出すことである」



だからこそ、最良の機会に恵まれ続け、最良の自身となり、最良の働きが出来るのだ、と書きました。











これに納得がいかない場合は、



「自分を最も活かす、とはどういうことか」



そこを掘り下げて欲しいと思います。










あなたは、



「自分を活かす」



ことは何をすることだと一体考えておられるのか?















そうしてきた結果、7年の間にそれ以前の人生で行ってきたことの、何倍ものことが出来ました。





むしろこちらに来て、私は 「やっと本当に生き始めた」 のです。



私は真剣にそう思っていますが・・・








その私にとって、古い軽トラックに乗るということは、この土地で過ごした時間を象徴するような行為でした。




簡単に言いますと、



「周囲の不理解と戦いながら、それでも自分の価値観に従って進む」



という行為の象徴でした。





周囲というのは距離的に近い人というよりも、精神的に近い存在ということになります。










何故、感謝することは難しいのか?



それは周囲から、



「感謝させない力が常に働き続けている」



ということがまずあります。










「感謝だ、感謝。 感謝しろよ」



と人は言います。








しかし言葉は変えてありますが、その何倍も、反対の意味のことを言われていることでしょう。









「お前は足りない、そんなことでどうする? もっと走れ! もっと! もっと! もっとだ!!」




と。









恐れがそう言わせるのです。



相手は不安なのです。







何の分野のブログでもよく見ますがね。



「この点に関してはまぁいいけど、ここの部分はこれだけってなんだよ?



そんなことでそうするんだ?



海外勢との差がますます開いてしまうよ・・・  やる気あるのか!?



あぁこんなことでどうするのやら・・・。




いやいや、オレはお前のことを心配しているからこそ言ってやっているのだぞ!」













「足りない!足りない!足りない!足りない!」















不足に焦点を当てながら、同時に心から感謝することは出来ません。






でも生まれてからずっと、もうそういうのが ぐわっちり と染みついてしまっているんですよ。













『感謝出来ないのは、感謝させない力が常に働いているから』



しかしそれは表面的な問題です。












本当の問題は、



「そういった力に抗うだけの自分自身の価値観を持てていない」



何故なら、



「自分自身を認めることが出来ていないから」




ということです。








1・苦しみ否定


2・『正義』 否定


3・世界を肯定すること


4・自分を認めること





1・苦しまないでください。


2・『正義』 に惑わされないでください。


3・世界の良い所に目を向けてください。


4・自分の良い所を見て認めてください。







4.自分を認めること






これが出来ていないと 「3・世界を肯定すること」 は出来ません。









そう、これが出来ていないと、感謝することもままならないのです。










あなたは自分で自分を認めることが出来ますか?









これが 『感謝の壁』 です。








(つづく)