1000年後へのブログ 氷河期世代のとらわれない暮らし

ある氷河期世代の、常識や過去の経験にとらわれない、暮らしいろいろを題材にしたブログです。

1000年後へのブログ・・・偏頭痛を治そう⑥






本当に好きなこと・・・・・?





そういう私も、田舎暮らしを始めた最初のうちはそんなことはわからず、そもそも当面どうやって食いつないでいくかで頭の中は一杯。




渓流脇の山荘に住むようになっても、


「のんびり川をいつまでも眺める」


なんてことは、とても出来ませんでした。






とはいえ、あまり食って行くことにばかり夢中になっていては、何のために生活を変えたのか、意味がなくなってしまいます。




なので、仕事を、バイトを選ぶにあたっても、


「好きなこと」


をするようにしようと思いました。




これは所謂、


「好きなことをしていいんだ!輝こう!」


というノリではなく、



「ある程度好きなことくらいしか当分出来そうにないしな・・・」



といった、


「後ろ向きに前向き」


なスタートで、そもそも自分は本当のところ何が好きなのかは、わかりませんでした。






それでも、好きだとわかっていることはいくつかありました。



まず山の中の川。



昔から心身を痛めると、そういった所へ行きたくなるのでわかっていました。



そして渓流の脇にある山荘に 「住み込み管理人」 として住むようになったことで、これはひとまず達成されていました。






次にはっきりしていたのが、掃除でした。



自分の部屋、学校の部室、会社の事務所、どこへ行っても率先して掃除をしていたので、好きなんだろうとわかっていました。




またうちの母親は、


「頭が痛くてご飯がつくれない・・・」


という時でも掃除だけはセッセとしていましたが、自分もそういうところがありました。




これであれば頭痛のひどい日でも仕事が出来るはずです。


そう思い、スポーツクラブの風呂とトイレ掃除のアルバイトを見つけだし、始めたのでした。



一度書きましたが毎朝2時間、汗だくになってタイルや桶・便器に磨きをかけピカピカにするという、毎回成果が目に見える仕事は精神衛生に良く、湯気の中での軽作業も偏頭痛予防には良かったです。




仕事が終わるとそのまま朝風呂に入れさせてもらい、スッキリした後は100円程度で一服出来る店に入り、好きなことをすることで心身の調子が良くなってくること、新しく湧いてくるパワーを感じながら、さらに自分が好きなことについて考えていました。





毎朝の風呂トイレ掃除のバイトと、山荘の管理、これもほぼ掃除です。


掃除機をかけ布団を干す、窓を拭き、庭を掃く、そして傷みの出たところは修繕する。



時間は決まっていない仕事なので、自分のペースで黙々と作業に没頭出来ます。




そして気の向くままに休憩をいれ、犬を川で遊ばせ自分も散歩です。


その後、スポーツクラブでのトレーナーのバイトも始めました。


これは好きというか、自分なら出来るだろうという考えで始めたことでした。




ともかく全てを合わせて、1日の労働時間が7時間以内になるようにしました。


しばらくして、缶コーヒーが喉を通らなくなり、コンビニに行くことがなくなりました。




こういった新しい生活のサイクルに馴染むと、さらに余裕が出てきて自分の過去を見つめることが出来るようになり、自分の本当に好きなこと、自分自身が次第にわかるようになっていきました。


手順です。参考までに。

「幼稚園」

ブロック遊びが好きだった、一人でずっと遊んでいた・・・

ぬいぐるみが好きだった、今も好きだ・・・

カロリーヌの絵本(フランスの動物もの)ばかり読んでいた・・・

「小学校」

学研の秘密シリーズを読みふけって暗記していた・・・

自由時間に一人でランニングしていた・・・

壁新聞とイラストをよく書いていた・・・

「中学校」

軽自動車雑誌を読みふけって性能を暗記していた・・・

授業中に足漕ぎヘリコプターで飛ぶ空想をずっとしていた・・・

「高校」

電車を使わずによく歩いていた・・・

駅前のモーニングセットを食べ歩いた・・・

書店を巡って参考書を沢山研究した、参考書の「前書き」を好んで読んでいた・・・

山歩き・・・

毎日きっかり1時間サンドバックを蹴っていた・・・

「その後」


稽古と理論の研究・・・


ドトールコーヒーめぐり・・・


土地と歴史の研究・・・


オートバイ、ジムカーナ、スタントライド・・・


ロイヤルホストめぐり・・・


業務マニュアル作成・・・


建物の再生、草刈・・・



こう箇条書きで書き出してみると、自分の中の傾向が見えてきます。



自分の中の強い『キーワード』となる言葉は、


・動物
・絵本
・軽自動車
・喫茶
・山、川
・研究
・特訓
・掃除
・表現


でした。






つまり自分は、



「可愛い物と癒しが好きで、自分の中で練りこんだものを表現したいタイプの人間」



だということがようやく自覚出来てきたのです。





わかれば後はもう逆らわないようにしようと思いました。



そうすると、またいろいろな事がいっそう上手く回りだしました。









仏陀の弟子にパンタカという異常に覚えの悪い弟子がいました。



とにかく暗記が全く出来ない人だったらしく、パンタカ本人も挫けかけていた際に、


「掃除だけでいいから頑張んなさい」


と仏陀から箒を渡されます。



パンタカはその箒でひたすら掃除に打ち込み、やがて悟りを開いたのでした。








ここで考えていただきたいのは、


好きで掃除をしている私と、修行のために掃除しているパンタカ、


どちらが社会に喜びをもたらすかといったら、そりゃ私だということです。





 仕事の仕上がりも私の方が綺麗でしょうし、好きで掃除している私が近くにいる方が、「修行だ!」と思いながら掃除しているパンタカが横にいるより、まわりの人も気分いいでしょう。




サンドバック蹴るのが大好きで、


「何時間蹴ってもまだまだ蹴りたい!」

という人間と、


「俺は選手だプロだ、一日に20R位は蹴らなきゃ!」


と思って蹴っている人間が、いざ対戦して蹴りあっても勝負になりません。



ドーナツが好きで好きでたまらなくて、ミスドでバイトしている娘と、


「ドーナツなんて油菓子を喜んでいくつも食べる連中の気が知れないけど、こういう俗っぽい所で若いうちにバイトしてみるのも勉強だわ」


と思ってバイトしている娘、


どちらのレジに並びたいですか?







簡単なことは、何故か見えにくいものです。



私も掃除という好きなことを黙々としているうちに、次第にそういったことが少しずつ見えるようになり、もっとシンプルに好きなことで自分を活かして、まわりも楽しませようという気持ちが強くなりました。





そうして新しいことも始めてみると、やはりそれも上手くいくのでした。



なにしろ好きなことだけに、深い知識と愛を持ってことにあたり、それが相手にも伝わるからです。


皆さん愛のある仕事をされる事に飢えてますから。




ここ数日で、


「この人は愛のある仕事をしているな~」


と感じさせる人に、どらくらい会ったでしょうか?



ほとんどいなかったのではないでしょうか。



そして、ほとんどいない「プラス」のものには、価値が出るのです。





こうなってくると、世界がすごく素晴らしい場所だということに気づいて、大好きだと思うようになってきます。



そして誰だって好きな相手のためなら、「義務感」なんてなくても何かしてあげたいと思うじゃないですか。



世界に対して、そう思って行動するようにようになるんです。




「人が好きなことばかりしても、世界が滅茶苦茶になったりは決してしない」


これがその前向きな理由です。






後ろ向きな理由は、


「自分が本当に好きなことと真剣に向き合う人は、絶対的に少ないから」


です。






「好きなことばかりしていてはいかん」


「みんなが好きなことをしていたら世界は滅茶苦茶になる」



好きなことが何か、知らない人、誤解している人はこう言うのです。





そう、


「好きなこと」


は、


「よく理解されていないし」


しかも、


「誤解されている」


のです。





「好きなこと」 



それは少女漫画の様に、フワフワで甘くて虹色な キラキラ したものだとか、


少年漫画の様に「飲む打つ買う喧嘩する」の、欲望ままの ギラギラ した様なことだと勘違いされているです。





「好きなことばかりしていいとなったら、


私は毎日正午まで寝ているわ、昼ドラ見ながら酒を飲んでいるわ、カタログショッピングで注文し続けているわ。


子供達も好きにさせておいたら、きっと一日中ゲームかメールしているわ、ジャンクフードばかり食べて、炭酸ジュースばかり飲んでるわ


旦那は道路沿いの早寝の爺さんが目を覚まそうが、夜更かしの婆さんが朝方に目を覚まそうが気にせずに爆音マフラーで走り回って、パチンコに一日中行ってるわ」






それは本当に好きなことではないでしょう!?




というか、むしろそういったことは、

「日常的に好きなことが出来ていない人間が、その反動でやること」


であり、



「中毒」



です。



本当に好きなことをしていたら、もったいなくてそんな中毒的な行為に時間もお金も使いません。



周囲を見れば、好きなことが出来ていない人ほど、中毒的なことをしているでしょう。


ですから、経済の活性化の視点から見れば、人に好きなことをさせないで、その反動で消費させ、中毒にした方が効率がいいのです。


1000年後の社会はそういったことは卒業していることでしょうが。





好きなことと、反動的行為や中毒は違うものです。



「好きなこと」自体は悪いことではないのです。



問題なのは、「何を」 好きなこととしているか、 なのです。



「いい人」 ほどここを混同しないでください。







1000年後の人は、私がまだ遠慮して書いていることに気づいているでしょう。



そう、この時代は


「社会全体が護送船団方式で進むために、人それぞれに『好きなこと』をさせないように、様々な手段で『好きなこと』を貶め、意図的に誤解させコントロールしている」


まだそういう時代の後期だったのです。



国全体がこれまでの立ち位置を変え、変わらなくてはいけない時期に来ていることは分かっていても、まだ新しいことへの恐れ、抵抗がある。





ですから例えば、2015年の現在も有名動画サイトで、


「好きなことで生きる!」


と動画職人を持ち上げるキャンペーンを張っていますが、これから必ず、制作に際しての事故・トラブルや、内容の非倫理性に焦点を当て、


「やっぱり好きなことで生きようなんて、ろくなことにならん、ろくなもんじゃない」


という空気を作ろうとする動きも出ることでしょう。





そういったニュースを目にした時に、考えていただきたいのは、


「そもそも彼らの中で、本当にその動画を好きなことだから作っていた人というのは、どれくらいいるだろうか?」


ということです。






「本当は歌手やタレントになりたい」


「手っ取り早くチャンスがつかめそうだからやっている」



そういう人が多いでしょう。





そして、『再生回数』を稼ぐために、



「好きでもない、奇をてらったこと」



をやり、それを見て人は、



「好きなこなんてやっぱりロクなもんじゃないね!」



と勘違いしてしまう・・・。








本当に好きなことをテーマにしていれば、閲覧数だの評価数なんて気にならないはずです。




私もこの手の話は本当に好きで、閲覧数0でも毎日書けますね。




私に限らず、ここはそういった人が多い場所と感じています。



そういうところがムラゴンは素晴らしい、カッコいい。






 『偏頭痛を治す、心のコツ』


・好きなことをするパワーを認識し、好きなことに打ち込むこと


・そのためには、好きなことをすることに対して「植えつけられてきた罪悪感」と向き合わなければならない




つづく










1000年後へのブログ・・・偏頭痛を治そう⑤





 「新しい生活を始められたのも、続けられたのも、偏頭痛のおかげ」




しかしそれは、




「いつまでも自分の状況を 『偏頭痛のせい』 にしていては、偏頭痛は治らない」




ということでもある。








そのことに気づいた時、また変わらなくてはならないと思いました。




ただそれは、


「田舎暮らしを放棄して都会に帰る」


とか、


「近辺で正社員の仕事に就く」


とか、



そういう変化のことではありませんでした。







「自分が今何をしている、これから何をする」



ということではなく、




「自分の心の在り方を、根本から見つめ直し、変える」



「自分が『何をするか』ではなく、自分が『どういう考え』でするのか、に意識を向ける」




私に必要なのはやはりそれでした。(ここは難しくもある部分ですので、あとで捕捉します)




あちこち掃除し、渓流をワンコと歩きながら考え続けました。






渓流を散策しながら考えているうちに、周囲からは

「ゆとりのある人」

に見えるようになっていたらしく、「ゆとり」について思うところを書いてくれと地元紙から頼まれました。




『ゆとり修正無し30分勝負』

「ゆとり」について考えなくてはいけないのですが、今日は勉強がまだなので30分で頑張ってまとめてみようと思います。

書き直しもしませんん。



我々は周囲から「ゆとり」があるように見えているようですし、自分たちも最近は「ゆとり」があると感じています。



でも、

「ゆとり」とは何か

と考えるとわからない、ですよね?




少なくとも私は昔、

「時間とお金があれば、その時『ゆとり』があるだろう」

くらいに考えていたと思います。


でも普通は業種が何であれ、結局は自分の「時間」を切り売りして「お金」に換えているわけだから、その二つはなかなか両立できない。


だから定年になるかまで少しでも多くの「お金」を貯めて、その後に「時間」が出来たら「ゆとり」を楽しもうと、多くの人がそう思っていると思います。


私の場合はそれが待てなかったので、とりあえず「時間」を先に確保することにしました。

「お金」はどうにかなるだろうと思いました。

お金があったわけではないです。


でも極端な事を言うと、大昔の人は「貨幣」が無くても「暮らし」は歴然と存在したわけではないですか。

だから何とかなるだろうと思いました。


実際そうでした。

少なくとも「固定収入」だけで全てを考えるのは、ちょっともったいない話だと思います。


話は戻って、で我々は渓流でゴロゴロしたり、犬と昼間から散歩したり、ボランティア活動したり、子供に格闘技を教えたりしている。



周囲はそれを見て、

「ゆとりがある」


と判断しておられるのだと思います。



でもそれぞれ一つ一つ見てみると、どれも結構大変な行為です。

山をうろつくのも大変だし、犬をちゃんと世話して手作りご飯をあげるのも、ペンキ浴びながら落書き消すのも、体を張っての格闘技の指導も、すごい負担です。


でもそれらは確かに「ゆとり」と関係しています。


ちょっとコンガラがってきましたので整理しますと。

まず、

「ゆとりがある」とか「ゆとりをもて」

という言葉がおかしいと思います。


これは重要な点で、これらの言葉のせいで多くの人が「ゆとり」に辿り着けなくなっていると思うのです。


「ゆとり」というのは、何気にほとんどの人が一生を懸けて手に入れようとしている、人生の究極目標の代表格なわけではないですか。


大問題です、この事態は。




ゆとりは「春一番が吹いた」とか「景気が上向きだ」といったような 『現象』 ではない。

もちろん「洗濯機があればジーパンが洗えるのに」とか「やすりがあれば爪が砥げるのに」といったような 『物』 でもない。


ゆとりと「時間がある」や「お金がある」も実はそれほど関係は無い。


ややこしい事をあえてすることによってゆとりが発生するケースもある。



発生するといっても「ゆとり」が床の間に現れる訳ではなく、心に現れるだけである。



つまり「ゆとり」は『感情』である。 「ゆとりを感じる」という表現が正しい。




川でゴロゴロすることも、ボランティアも、ワンコの世話も、格闘技も本質的にはゆとりとは関係は無く、ただ私がたまたまそういったことをすることによって、


「個人の心の満足感」


を感じて得ているだけということで、我々を見てゆとりがあるように感じるという人も、たまたま方向性が似ていただけということ。



なお、「ゆとり」には「個人のペース」が大きく関わっているようです・・・。時間切れ





 依頼されて慌てて考えて、予行練習としてFBに書いていたものです。


しかしこれがきっかけとなって、この問題についてより考えるようになっていきました。


田舎暮らしを始めたからといって、体がある程度はともかく、心がすぐに変わるわけではありませんでした。


 身体的な束縛は一気に減っても、やっぱり不安はあって、それで緊張し続けてしまっていますから。



そしてその心の「緊張」は、体にも悪影響を与え続けていたわけでました。





それが解けてきたのが、私の場合だと1年半ぐらいでした。


それくらいかかりました。




でもこれは「時間が経過したから」というよりも、



「ゆとり問題がきっかけで考えた」



ことの方が大きかったと思います。




それをきっかけにして、心も変わりだしました。


「ゆとり」についての取材の前に、過去のバックナンバーを図書館で探して、他の人がどのようなことを語っておられたのかチェックしに行きました。


過去の取材の対象者はご年配の方が中心だったようでした。


そして多くが、

「○○することが私の趣味で、これに夢中になっている時にゆとりを感じるんです・・・」

という内容のもので、

「私の趣味紹介のコーナー」


の様になっていたのです。




ずっと読んでいるうちに疑問がわいてきました。


これまで登場した年配の方々は、好きなことをしているとゆとりを感じるんだと言っている・・・。



好きなことをしていれば、ゆとりを感じる、自然な話です。




では何故、多くの人がゆとりを感じずに生きているのか?



「好きなことを出来ていないのか?」



「では何故しようとしないのか?」


また、

「現代人はわりと好きなことをしているのではないか?」

「それは本当に好きなことなのか?」


「そもそも好きなこととは?」



といった疑問です。





エンドレスになってしまうので、


 「自分も含め、人は何故好きなこと生業にして、ゆとりを感じながら日々生きていくことが難しいのか」


といった比較普遍的な疑問に、今は一旦まとめさせてください。



この問題について、あまり考えなくても私の場合すぐに頭に浮かんできました。


「好きなことばかりするな」


「好きなことを仕事にしてはダメだ」



と、あちこちから散々言われてきたことがですね。




しかし考えてみると、これはおかしな話でした。



誰でも好きなことをしていれば、ゆとりを感じられるだけでなく、大きな力を発揮できるからです。




人間好きなことをしていると元気が出ます。

エネルギーやアイデアが次々に沸いてきて活発になります。

多くの出会いに恵まれ、それだけ多くの人の助けを得られ、また助ける喜びを体験する機会にも恵まれます。


こうなってくると大きな病気をしなくなってきて、また通院のための時間がもったいなく感じるようになってきて、病院に行かなくなってきます。

これで保険料問題は解決です。



さらに快活になって見た目も内面も明るくなるので、モテるようになります。


これで少子化問題も解決です。




いいことだらけです。




しかし、

「好きなことで生きる」

という考え方は基本的に拒絶されます。


真面目で「いい人」ほどそうでしょう。


それは日本人に染み付いた習性というか信仰に近いものなのだと思います。




まず、

「好きなことを仕事にしてしまうと、その好きなことを純粋に楽しめなくなってしまったり嫌いになったりしてしまうからよくない」

という考えがあります。




しかしこれは少し考えれば分かるのですが、

「好きなことの一つを嫌いになる かも ということ」

と、


 「好きでも何でもないことに人生の半分を捧げ 続ける ことになるということ」



どちらがリスキーで、人生全体を灰色に近づける選択かは明らかです。



しかも嫌いになる「かも」ですから。

もちろん嫌いだと思っていたことも職業として続けているうちに、面白さが見えてきて好きなことに変わることもあります。




次に、

「好きなことばかりしてちゃダメだ!」

という考え方が根強くあります。



その理由として、「勉強にならない」というのがよく言われます。




でも好きなことに打ち込んでいるときの方が、人はよほど自発的に学びますし、その時に身についたものはなかなか消えないものです。


私は今実際に好きなことだけ仕事にしていますが、空いた時間は勉強ばかりしています。




 「いや・・・でもだな、『忍耐』を学べないだろ!」

と今度は言われます。




しかしそれは嫌な事を我慢してやるから一番必要になってくるものであって、好きなことをしていればそもそも不要なものなのです。



また好きなことで生きるという生き方は、それ特有の逆風を浴び、困難にぶつかり、そこから学ぶことになる生き方でもあります。


その中にも『忍耐』も、それはかなりのものが、ちゃんと含まれてくるのです。


やったことがない人は、それを知らないのです。






すると今度は、

「皆が好きなことをしていたら、社会は滅茶苦茶になってしまうではないか。
お前は自分だけ楽しければ良いのか?皆が幸せに暮らせる世界を作ろうという気が、お前には無いのか?」

と言われます。






ここで、

「好きなこと、とは」

ということについて、もう一度考える必要性が出てきます。



あなたにとって、本当に好きなこと、それはどのようなことですか?





つづく。



















1000年後へのブログ・・・偏頭痛を治そう④




田舎暮らしを始めて1年後。


我々はこれといった挫折も無く過ごしていました。


畑なんかも少しやってみましたが、やってみると自分は農業にむいていなかったです、でも土木は好きだったという。



でももともと、


「農業で身を立てるぜ!」

とかいう感じではなかったので、ぜんぜん困らなかったですし、その他でも問題らしいことは無かったです。






「健康のために田舎に逃げる、頭痛が治って生きていければいい」



というのがスタートで、

「○○で△△しよう!」

といった、

「崇高なテーマ」や「野心」


が無かったので、逆に


「現実のギャップ」


にぶつかるというようなことが起きにくかったのでしょう。






こういう生活になって困っていること、後悔してること、何かあるかと夫婦でよく議論するようにしていたのですが、



「何も、無いなぁ・・・」



がいつも結論でした。



実際に悪い生活ではなかったのです。



私たちは山の中の「無人山荘の住み込み管理人」として田舎暮らしをスタートしました。



渓流脇の木々に囲まれた中、5DKの欄間建具をふんだんに使った日本家屋に住んでいました。




仕事はその管理と、スポーツクラブの風呂とトイレ掃除の早朝バイト。



掃除はもともと好きだったので、最初は軽いぎっくり腰を連発したり、気持ちが卑屈になったりしましたが、大きな組織の中での仕事と違い、



「成果が目に見える仕事」



は精神衛生上非常に良いこともあり、割と楽しくこなしていました。



風呂掃除の様な蒸し暑い中での汗をかきながらの軽作業は、偏頭痛には結構良かったと思います。





その後、スポーツクラブでトレーナーも始め、それで何とか生計は立ちました。



もっとも収入は半減とかになったわけですが、出費も減ったのです。



それも、


「不本意な出費」


ですね。



病院代とか、薬代、疲れ切った時にはグリーン車を使ったり、落ち着いて食事出来ないと胃が痛くなったりするので高めの店で食べていた昼食代とか。




だから辛いとか寂しいとかもなかったです。


ワンコを飼って、毎日一緒に渓流を散歩して、ガストのモーニングをゆっくり味わったり、むしろ楽しかったです。








その後、綺麗になった山荘には夏など非常に多くのお客さんが来られるようになり、


「家が民宿化してしまう」


ということが起こるようになってきました。


が、すぐにスポーツクラブの常連さんから、


「いつも熱心にモップ掛けをしている綺麗好きな君に、住んで欲しい古い家があるんだ」

と声を掛けられ、旧市街地にある古風な一軒家を格安で貸して頂けることになったのでした。




そこは常連さんのお母さんが急病で救急車で運ばれてから2年、そのままになっていたとかで、布団もその日の朝のままの状態でした。(とはいえ、お祖母さんは健在でした)



その家を大家さんと二人で一夏掛けて懸命に片づけました。




今度の建物は、5Kの平屋。


築50年で、廊下は大昔の学校のような板張り、壁は土壁、窓枠も木製で網戸無し。



まさに「昭和の家」といった感じです。



通気が良く、化学物質も全然出ていなかったため、室内の空気が綺麗で呼吸が楽でした。


これも偏頭痛予防には良かったです




『偏頭痛を治すコツ』


・換気をしっかり行う事。出来れば科学物質の少ない環境に住みたい

・100円ショップなど、ニオイのキツイ店舗には出入りしない





家の周りをブロック塀で囲まれていたので、ワンコも山にいた時と同じように自由に放せました。



どうせ壊すつもりだったから、好きにリフォームして良いよと言われていたので、壁をぶち抜いて抜け穴を作ったり、楽しんでいました。







そうやって、体を使って楽しんでいると、頭痛の頻度はみるみる減ってきたのです。



しかし、完璧に無くなるかというとそうではなく、それにはまだ時間が掛かったのでした。






偏頭痛の原因は、「体」、それと「心 」にあるように見えて、実はほとんどの場合「心」の問題が根底にある


と前回に書いていました。





田舎暮らしを始めてみて、体はわりとすぐに変わりました。


空気は良いし、外食は減るし、体を動かすようになりますから。



でもそういったことだけで偏頭痛が完全に治るかというと、私の場合は無理でした。





「田舎暮らし」


を始めたからといって、肝心の心がすぐに変わるわけではなかったからです。




「食べ続けていくことは出来るだろうか?」


「世間は我々のことをどう見ているだろうか・・・?」



様々な不安がありましたから。




そういった思いが、自分の心を、結局は体を硬直させ、偏頭痛というかたちで痛みとなって表れていました。






繰り返しますが、


「田舎暮らし」


を始めたからといって、それですぐに偏頭痛が治るということは、私に限らずないと思います。




病院で何度か精密検査して異常が「見つからない」場合、まず偏頭痛の原因は、


「体ではなく、心」


です。



・・・・・・・・・・・・・・・・


とはいえ、1000年後は検査技術も発達して、「目に見える肉体的な異常」が見つけられるようになっているのかも分かりませんけれどね。


しかし、現在の医療技術では体の異常が見つけられないのであれば、「心」からアプローチしていくしか、今はないのですから。


・・・・・・・・・・・・・・・・



田舎暮らしを始めたといっても、それだけで問題の「心」が根本から変わることはないからです。



かといって、勧められるままに心療内科に行って、精神安定剤や筋弛緩剤を貰ってきて飲めば治るのかというと、そんなことは決してない。


少し長い目で見れば、より悪くなるだけです。



結局はどこで暮らしているにせよ、



自分の「心の問題」と向き合い、



根本からそれを解決しないと偏頭痛は治らないのです。







その為には自分の「生き方」から見直さなくてはならなくなります。



そしてその為には自分の「考え方」から見直していくことになります。



そうです。


偏頭痛を治すということは、



「自分とは何か?」



という問題と向き合うことになってくるのです。





もっと親しみやすく言いますと、



「幸せになれば、偏頭痛は治る」



のです。






言い換えると、



「あなたの偏頭痛が治るころには、あなたは幸せな人になっている」



ということでもあります。






ですから今、偏頭痛で苦しんでいる人は、



同時に大きなチャンスを掴みかけてもいる


のです。





だって病気でもなければ、人は日常を詰め込みすぎて、こういうことを真剣に考えません。



それに偏頭痛はもちろん辛いものですが、かといって数年後に死亡する、というものでもないのですから。





偏頭痛がなければ、私は田舎暮らしを始めることも、続けることも出来なかったと思います。




偏頭痛があったからこそ、


「田舎暮らしするしかないじゃないか・・・」


と決意出来たのです。



そして、偏頭痛があったからこそ、


「今はしょうがないじゃないか・・・」


と気持ちが不安定になりやすい時期を乗り切ることも出来ました。




 田舎暮らしを始めて、良い環境の中で体を動かす生活をして・・・。




でも、やっぱり不安は心に常につきまとっていましたのです。



「ずっと食べていくことは出来るのだろうか?」


「周囲は我々のことをどう見ているのかなぁ・・・」


と。




やはり悩むところでした。


深刻に。






私にとって「幸い」だったのは、私がこういう生活を始める切欠として


「どうにもならない偏頭痛の痛み」


があり、それがまだ残っていたということです。




「だから、しょうがない」




と思えたのです。







それがなければ、こういう生活を続けることは、私の場合は


「罪悪感」


が許さなかったでしょうし、繰り返しますがそもそも田舎暮らしに踏み出すこともとても出来なかったでしょう。




少なくとも30代では出来なかったと思います。






一般に、人が生活に「最初の」大きな変化を起こせるとしたら、殆どの人は



・病気


・大きな事故


・破滅的な人間関係



という切欠しかないのではないかと思います。



そうではない人は相当強い人で、おそらく偏頭痛で悩んだりしないでしょう。



なので上記のことは見方によっては不幸なことではありますが、そうでないとも言えます。



 私が最初の一歩を踏み出し、そして新しい生活の基礎つくりの時期を乗り越えられたもの、まさに



「偏頭痛のおかげ」


でした。



だから、良かったのです。



本当に、偏頭痛は天からの贈り物だったのです。










それは同時に、



いつまでも自分の状況を「偏頭痛のせい」にしていては、偏頭痛は治らない


ということでもありました。





つづく。