1000年後へのブログ 氷河期世代のとらわれない暮らし

ある氷河期世代の、常識や過去の経験にとらわれない、暮らしいろいろを題材にしたブログです。

1000年後へのブログ・・・偏頭痛を治そう⑧

小さい頃からの偏頭痛が23歳あたりから深刻な状態に悪化。 


私の場合、解決したのは35歳の頃でした。



あなたの偏頭痛もきっと解決できます。




また偏頭痛は新しい生き方への扉でもあります。


いま偏頭痛で苦しみを感じている人は、同時に大きなチャンスを掴んでいるのです。




自分の根底に常に横たわり、自分を痛めつけ、偏頭痛などの症状を引き起こしていた黒幕。



考え続けて辿り着いた、その正体は、



「恐怖」



「生きることに対する圧倒的な恐怖」



でした。







私は数年前まで、つまり生まれてから35年位の間、恐怖を動機に生きていました。



何もかもが怖くて、縮み上がり、日々少なくても何百とすることになる判断を、ほとんどの場合に恐怖心から行っていました。




欠乏


不理解


 批判


 自己不信



私の場合なにより強かったのは、


成長出来ないことに対する恐怖でした。







『恐怖と向き合う』


御両親か何らかの組織から、良い意味で特殊な教育を受けた人でなければ、殆どの人がそうではないかと私は考えています。




何故なら、



 「恐怖心を煽ることで人を操作する」


という手法が、ずいぶん長い間使い続けられているからです。




今住んでいる街の市街地を初めて訪れた時、

「落書き」

が非常に目に付き、そのせいで最初はこの街に住むという気が全く起きませんでした。


それでも縁あって最初の住処が決まり、実際に住み始めて数ヶ月経った頃、落書き消しの活動を模索し始めました。


まず最初に知り合った、市街地で商売をしておられる人物に「落書き酷いじゃないですか」と話を持ちかけたところ、


「落書き?落書きなんで何処にある?」


という返事が返ってきて驚きました。



その頃は、街で一番大事なポジションの交差点周辺にある建物の外壁が、軒並み落書きまみれという状態だったからです。



そのことを指摘すると、


「あぁ確かにあるねぇ・・・そういえば」


と、とぼけてられておられたわけではなく、本当に見えなくなっていたのだということが分かったのでした。



それでも何名かおられる商店街主のお一人を紹介して頂き、話をしにいったところ


「たしかに落書きはあるけど、それほど問題かな? ウンでも君がそうしたいってのは良いことだと思うよ」


といった感じで、落書きを認識はしておられても、消す必要性はそれほど感じておられないのということが今度は分かりました。



もう自分だけで好きにでやろうと思い、ペンキ代くらい出してもらえないかと知り合いの市役所員にも相談したのですが、返事はありませんでした。


あとで分かったのですが、市として出来る事はないと上席から言われてしまったそうで、返答に困っておられたそうです。

悩ませてしまいました。




もうペンキ代も自腹でいいと思い、


「今度この落書きを消しに来ていいですか?タダでやりますから」


と落書き被害にあっている商店主のところへ行って、直に掛け合ったところ、



「前にも消したけど、また落書きされたんだ。


君が消したら、今度は倍返しで落書きされるかもしれない。


その時に君は、責任取ってくれるんだろうな(怒)」



というさらに予想外の反応が返って来てしまい、ここで挫けてしまいました。




しばらくしてラッキーなことに、街の流れが望む方に変わってくれて、一番大きい商店街主催で落書き消しイベントを始めることになり、そこに参加するという形で落書きを消せるようになりました。



1年くらい掛けて計4回そういった「落書き消し会」が行われ、ずいぶん綺麗になりました。


まだ細かいのは残ってますし、消したところにまた書かれたりしたところもありますが。




私も正直言って落書きが見えなくなってきてしまいました。



それにまた酷くなってきたら、その度にもう一度やればいいんじゃないかと今は思います。



落書きするのも、消すのも、そういうのもひっくるめて街が生きているということではないかと。




落書き消しの作業は、シンナーは頭に響くし、姿勢はきついし、でも綺麗になるのは分かりやすく嬉しかったりと思い出深いんですが、より面白かったし後に残ったのは落書きに対する様々な反応の方でした。



「恐怖」



に対する、人の様々な反応に似ています。



恐怖は人の暮らしの中に深く根を下ろしています。



その影響を受けずに生きている人は少ないでしょう。



しかしそれは当たり前のように暮らしの中に溶け込んでいて、人によっては落書きのように意識することも出来なくなってしまっています。





恐怖との付き合いは、ほとんどの場合



「泣き止まないと怒るぞ!」



で始まります。



日本人の場合は少し進んで、


「食べ物の好き嫌いすると大きくなれないぞ」


などが、自我が芽生えて最初の恐怖との付き合いになるのではないでしょうか。





こういったことをスタートに、


恐怖を動機に自分の行動を選択する習慣


を気付かないうちに身につけていくことになります。




「これ美味い!食べろ食べろ!」

とだけ言ってくれた御両親をお持ちの方は、その時点で非常に恵まれたスタートラインに立つ機会を与えられた、とてもラッキーな人です。


そのスタートラインは、何が起きようが、最終的に何処へ着こうが、そういったこととは関係なく、道中を楽しく歩けるコースに続くスタートラインだからです。




話の本筋から若干それますが、ほとんどの生き物は本来かなりの『偏食』です。

またいわゆる『長生き村』の食生活も、貧しいバリエーションの『粗食』であることが多いのです。

ただそういった地域では体格は良くなりにくいようです。


しかし多様な食物を摂取し、体格は良くなりながらもアレルギーだらけのパターンと、どちらが良いと思っておられますか?



そういったことを考えている人は多くないでしょう。



しかし、


『自分の考える健康体のイメージ』


が自分の中ではっきりしていないと、恐怖を煽るために次々に送り込まれてくる「健康情報」に振り回されることになってしまいます。




それは運転経験の無い子供は、


「パワーはそれほど無くてもいいから、エンジンに味があって、車体は軽く低重心で、メンテナンス性が良い・・・」


といったような、



『自分の理想とする車像』



具体的にイメージすることが出来ないために、


・最高速度500キロで鳥よりも速い!
・タイヤから爪が生えて、絶壁すら登れる!
・厚い装甲はバズーカー砲の直撃にも耐える!
・太陽光子力エンジンで無限のエネルギー!
・呼べば自動操縦で駆けつける!


といった、恐怖心の塊が生み出したような「バットマンカー」的なものに流されてしまうのに似ています。



これは結局のところ全てに当てはまってきます。






話は戻って、学校に通うようになると


『勉強が出来ないと、集団行動が出来ないと、大人になって苦労するぞ』


と煽られるようになります。





そういったことがずっと続いて、今は


『みんなでサービス残業をしないと、ボーナスを払うどころか会社が潰れるぞ』


とか、


『税金を上げないと、社会保障制度を維持出来ないぞ』


とか、


『TPPに参加しないと、工業製品が売れなくなって新興国に追い抜かれるぞ』


といったことを言われているわけです。



こういった恐怖を利用して人を操作する方法は、非常に簡単かつ効果的ですが、結局のところ



「動機が悪い」



ため、結果を出し続けていたところで、常に不幸感が個人個人に、社会全体にまとわりつくようになってしまいます。 





恐怖から生まれた不幸感を埋めようと、



 消費→物質の宝を蓄える


貯蓄→口座に宝を蓄える


信仰→天に宝を蓄える


自分磨き→自分のなかに宝を蓄える



といった行動のいずれかに人は走ります。





こういった行動の種類に優劣は無いと思います。



しかし「恐怖」という根底にある問題をどうにかしない限り、上記のことをいくら頑張っても解決はしないのです。

(解決のきっかけにはなる可能性があります。)



ある時、クタクタに消耗しきって、

「なぜ埋まらない? これ以上どうしろっていうんだ?」


と思うかもしれません。



思わない人も多いと思います。


世の中には広い意味で頑丈で、最後まで走り抜けてしまう人も確かに結構おられますから。



それは街の落書きが目に入らない、見えても気にすることとは思わない人が結構多いのに似ています。




そういった人は、既にここを見ておられないと思います。



また落書きの話に戻るのですが、落書き消しを拒否された商店主は、本当は落書きを凄く気にしていて、どうにかしたいと思っておられたと思います。


しかし、再度いっそう酷い落書きをされ、心が傷つく可能性をより恐れて、頑なになっておられました。



同じように、恐怖を感じている人ほど自分を消耗させる方向に走ってしまい、恐怖と向き合えないことも、



「より大きな恐怖」



が現れることを予想してしまうことが原因です。




より大きな恐怖にぶつかるくらいなら、今のまま走り続けたほうが良い、ひょっとしたら壁を破れることもあるかもしれない、と思ってしまうのです。





しかしそれは頭の中で生み出された妄想です。



より大きな恐怖など、本当は無いのです。



それは起きません



たった一つの自分の体、自分の人生を消耗し尽くし、そのことによって愛する人を悲しませる、それ以上に恐ろしいことなど無いのですから。



一度書きましたが、私の場合は一般的な将来に対する不安よりも、



「成長出来ないことに対する恐怖」



そして転じて、



「成果を評価されないことに対する恐怖」



が最も強く、それが自分の身をこわばらせていました。




それはやはり、身近な人々との関係から作り出されたものでした。



その恐怖を、時間をかけて、掃除という好きなことを仕事にして、渓流を散策し、リラックスしながら、解体していきました。



時間はいると思います。



そしてリラックス出来ていることも必要条件です。



そういった状態でないと、どんどん暗くなってしまうので。



なので、



好きなことで生きている「必要」がある


のです。




今こうやって書けるのは、そういったことを通して人間関係が回復しているからです。



将来に対する不安、恐怖も無いわけではなかったのですが、田舎暮らしや好きなことを仕事にすることを実際にしてみることで、どんどん消えていきました。



そうやっていてノタレ死ぬことは、


「自分で息を止めて窒息する並に難しい」


ということを、肌で感じて分かってきたからです。



恐怖に対する最高の薬は、



「実際に行動してみること」


だったのです。





こういった過程を経て、私は自分を、せねばならぬの



『ならぬマン』



に変身させ、自分を痛めつけるほうに向かわせていた黒幕の正体、



「恐怖」



と向き合い、それを解体し、その結果またいっそう力を抜いて、



好きなこと、嬉しいことを選択の基準に生きられるようになり、



そうなると頭痛の頻度もますます減っていきました。












『偏頭痛を治す心のコツ』




・あなたは何を恐れているのか? その恐怖と向き合い、解体すること。






難しいことです。





しかしこれが出来れば運命が変わります。




決意してください。



六合村まで行ってドライフラワーを買ってきました。


20時出発で渋川へ。


そこから「ロマンチック街道」をテケテケ走って23時に六合村到着。



応徳温泉の道の駅で宿泊。


このあたりはまだ結構気温が下がるようで、朝方少し寒かったです。



7時に起きて六合村内をウロウロ。


食事は「花敷パン」でパンを買えたものの、この時間では入れる風呂が見つからない。


川原が露天風呂の「尻焼温泉」は入ろうと思えば入れるんですが、混浴露天風呂はねぇ・・・


何気に世間はマッチョに厳しいですからね。


我慢することにしました。



若山牧水も通った「暮坂峠」を走って、目的地である


「花楽の里」へ。


ここは園内の標高差を活かして育てられた多様な植物を鑑賞出来る、素晴らしい施設です。


売店でドライフラワーをアドバイスを受けながら購入。



箱詰めしてもらっている間、展示室の地元の子供が撮った写真展を鑑賞。


目に留まった写真・・・


タローはとってもかわいいです



タローはおりこうな犬です



・・・。





犬が苦手な人で、



 「私が犬が嫌いなのをわかって、犬も私を避ける」


と言う人にしばしば会いますが、動物はその瞬間に相手の好みを判断しているわけではなく、相手の筋肉の動きを見てるのです。





人間に限らず、生き物は


恐怖を感じた時


戦闘体勢に入った時


痛み苦痛を感じた時



筋肉が縮む


のです。



 動物は、人間が恐怖を感じて筋肉を縮めるのを見て、自分も恐怖を感じてそれに対応した行動を起こしているのです。




それは格闘技もそうで、


打つ前に一瞬拳を引くのが相手にばれる


「テレフォンパンチ」


とか本によく書いてありますが、そうでなくてもこの



「筋肉の縮み」



が見えてしまうのは全てテレフォンパンチですし、みんなそこを見てるのです。



拳を見ていたって、避けるのに間に合わないですよ。




力むと駄目なんです。



動物に逃げられるし、



幸運にも逃げられる。



そしてその、



恐怖を感じ、筋肉が縮むことが、血行を悪くし、偏頭痛、その他の不定愁訴を引き起こす原因


となっているのです。




もちろん物事には必ず裏と表、陰陽があって成り立っているように、「縮む」ことがあって初めて「伸びる」ことも出来、尺取虫のように前に進むことが出来るわけです。




問題なのはその割合で、生活の中で



「縮むの割合が多すぎる」


のです。



みなさん今日起きてから今まで、どういった情報を目にしてこられましたか?



おそらく悪いニュース、困った話、けしからん話、不安になる話、不足を感じさせられる話、妬ましい話、そういったものが殆どだったことでしょう。


そうやって、負の感情を煽って、恐怖心から人を走らせる社会に生きているのですから、当然のことです。






そういった、

「恐怖社会」

の中にずっと生きていて、



自分が恐怖を感じている事にも気づかないまま、



筋肉は縮みっぱなしになり、



血行が悪くなり、



頭が痛く、



体の調子が悪いのです。



不定愁訴に悩まされるようになるのです。



もちろん心も。





そこから抜け出そうと思われますか?





決心すれば、出来ます。


ただ読み流したのであれば、何も変わらないでしょう。













まとめますと、


・頭痛をはじめとした「不定愁訴」は、病院に行っても薬を飲んでも治らない(頭痛の場合は一度は精密検査を受けたほうが良いでしょうが)


・バランスのとれた生活をすればよい、好きなことをしてゆとりを感じて暮らせばよい



・しかし「恐怖」も感情を原動力に動いている社会の中で、それは難しい



・なのでまず出来る範囲で好きなことをするのを中心にコンディションを整えた上で、自分の中の恐怖を解体することが必要



・「好きなこと」をしながらでないとダメ。 どんどん暗くなるし、なにしろ結局のところ「好きなこと」でないと続かないので



・「好きなことでないとダメなんだ」と納得し、受け入れること



・そのためには、自分を縛り苦しめてきた価値観や常識、


好きなことをすることに対する「罪悪感」


そういった様々なものを自分で 論破 出来るようでなくてはならない



・つまり 『心の勉強』 が必要。 田舎暮らしすればいいとかいうものではない



・しかしそれが出来た時には、頭が痛くなくなっているどころか、自由な自己発揮出来ている人になれている





私の場合、山の中やバイト先で掃除をしながら考え続け、リラックスして田舎暮らしが出来るようになるまで、およそ1年半から2年かかりました。




その頃には、偏頭痛もほぼ無くなりました。



治ったのです。




痛みが深刻化してから12年目のことでした。








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