1000年後へのブログ 氷河期世代のとらわれない暮らし

ある氷河期世代の、常識や過去の経験にとらわれない、暮らしいろいろを題材にしたブログです。

心の術の使い方・・・好きなことをする方法1





皆さんは毎日好きなことをしていますか?





あえて難しく考えようとしなければ、好きなことをして毎日過ごせていれば、それだけで人は



「幸せだ!」



と感じるはずです。





好きなことをするということは、それだけ大事なことです。




ところが 「毎日好きなことをして過ごしています」 そういった人と出会うことは、極めて稀です。





なぜ、多くの人は好きなことを出来ないのでしょうか? どうすれば出来るようになるのでしょうか?

そこのところを、オカルトに走らず、「理屈」で考えていきましょう。



『好きなことをしたい人が、まず理解し肝に銘じておくべきこと』


真面目な人は 「好きなこと」 をしようとする時に 「罪悪感」 を感じるものです。




「好きなことばかりしていてはいけません。 皆のために、するべきことをして、好きなことはそのおまけ。ご褒美程度にしておくものです」



そういった考えを、誰かからずっと押し込まれて育ってきているからです。




誰かから。 




殆どの場合は親であり、教師であり、上司であり、そういった考えを目上の人間から押し付けられた結果です。







簡単な話で、多くの人が「好きなこと」を出来ないのは、好きなことを「悪いこと」だと思っていて、



「悪いこと」 だと思っているから 「出来ない」 のです。   




それか好きなことを実は出来ていても、まわりには言わないのです。





悪っぽい人が好き勝手に振舞えるのは、 「おれは悪いから、好きな事という悪い事をしちゃうぜ」 位に思っているからです。




いわゆる 「いい人」 が 「好きなことをする」 という言葉を聞くと、一瞬腹が立ったり、不安を感じるのは、それが 「悪いこと」 だと思っているからです。






しかし、




「好きなことばかりしていてはいけません、皆のために、するべきことをしましょう。 それが良いことです」




このもっともらしく、殆どの 「いい人」 が縛られている考えは、神様が決めたルールでも、宇宙の法則とかでもありません。 






単に親や教師や上司といった、人を支配する立場の人間にとって、都合の良い考えです。


(全ての人が、人を支配する立場になった時に、都合の良い考えとも言えます)






自分がさせたいことをさせるために、ただ 「やれ!」 と命令しては嫌われるので、



「皆のために、するべきことなのだから、やりなさい」



とずっと言ってきて、それが今も言い続けられているというだけのことです。 





皆さんも、人を支配する側になることもあるはずですが、大量の知識と経験に基づく、はっきりとした自分の考えが無い事柄(例えば医療・食栄養・教育)に関してほど、



「するべきって言われているからやりなさい」



と言って済ませてきていると思います。




好きなことをしたいならば、まずこのこと肝に銘じてください。




「好きなことをすること自体は、別に悪いことではないのだから 『罪悪感』 を感じる必要は無い」




誰がが 「好きなことをしないで〇〇をすべきだ」 という時、その「〇〇」とは、単に 「その人があなたにさせたいこと」 である、と。




その〇〇をさせることで、相手は 「安心」 したいのだと。 






相手は 「不安」 なのだと。







なので、好きなことをする際に誰かを説得する必要がある際は、相手の不安をよく理解し、解くことが必要なわけですが、最終的には、そういう必要もないのだということも、分かることになるでしょう。





「良い人」  が「好きなこと」 を出来ないのは、 「好きなこと」 を 「悪いこと」 だと思っていて、「悪いこと」 だから 「良い人」 ほど 「好きなこと」 が出来ない。




と書きました。





「罪悪感」 が 「好きなこと」 をさせないわけですが、ではその 「罪悪感」 は 「誰」 に対してのものなのか?




そこを見つめていきましょう。






『神様がいたなら、どう思っているか』



神様。



特定の宗教の神様のことではなく、この世界を作り出した何らかの 『意識』、それがここでいう  『神様』  のことになります。



もちろんそれが存在する、ということを私は言いたいわけではありません。






『神様(何らかの意識)』 が存在し無かった場合、それでは宇宙は 『科学的な偶然の反応の連続』 で出来たことになります。




そうやって生まれたとした世界を 『宇宙』 とここでは呼ぶことにします。



そのいずれかになります。






念押ししておきますが、私としてはそれはどちらでもいいことなのです。





ではまず 「神様」 の方から。




神様がいたとして、神様は人間に対して 「あれをしてくれ、これをしろ」 といった要求はありません。



ありません。






神様はそんなに貧乏臭い存在ではありません。



そもそも全知全能なのですから。 




人間に何かをさせる 「必要性」 は無いのです。




やらなければどうにもならない必要性があることは、神様は最初から自分でやっています。






生き物が生きていくのにどうしても酸素が必要だから、酸素は用意されています。


陸上を移動するにどうしても足が必要であるから、足も生まれながらに付いています。




「やっていない!あれがない!」




と人間が感じる部分は、神様は 「現状で良い」 と思っているからこそ、そこには手を付けないできているのです。





人間が鳥のように飛べないのも、モグラの様に土に潜れないのも、過去にタイムスリップ出来ないのも、未来が分からないのも、神様は




  「人間には必要ない」




 と思っているから、そうしているのです。




そして、人間を神のごとくに完璧な存在として作らなかったのも、 「その方が良い」  と思ったからです。






そうでなければ、神様は失敗作を作ってしまった、失敗したことになります。 



でも神様は完璧でしょうから、失敗はしません。




神様が失敗したというのは、神様に対する侮辱になります。





だから 「神様は人間を完璧に作ったけど、後で人間が堕落した」 と宗教は言います。 






でもそれも結局は 「子育て」 に失敗したということでしょ。



神は完璧なのだから失敗はしません。(もし完璧でないのならば、こちらも全て言いなりになる義理は無いでしょう)






つまり、人間に欠陥があるように感じても、世界に問題があるように感じても、そういったことにも神様には何らかの意図があって、狙ってやっているということになります。




神は死んだわけではないのです。 




ただ人間に不要なものは付けなかった。





完全さも含めて。





そして、自分が手を出すことではない、と思っている部分については、手を出さないでいるだけです。





つまり神様は、人間に対し


「私は必要なものは用意しておきましたし、今も裏方はちゃんとやっていますから。 皆さんはこの世界の中で好きにしてください」


と思っています。




あなたが全知全能の神だったとして、宇宙と地球、多くの生き物と、そして人間を作り出して、その人間に対して



 「さあ!あれをしろ!これをしろ!」



 と言いますか?








答えて下さい、あなたは、言いますか?








「働け!納税しろ!軍隊を編成して戦い合え!神殿を建てて私を拝め!」




あなたは言う気になりますか?






勿論、絶対にそんなことは思わないでしょう。





神様はなおさらそんなことは思わないはずです。





人間より、人間が出来ていますから。





もし、そう思わない神様だったとしたら、私だったらドン引きしますね。



結局、こういった 「人は〇〇すべき」 といった考えは、「神様」ではなく、まるっきり 「王様」、つまり支配者的立場の人間の発想なのです。




ですから、




「神様があれをしろ、これをしろ、と言っているから皆さんそうしなさい」




という考えは、全て神様の名を騙った支配者的発想から来ていると考えるべきです。





神様は何も要求していません。



そして人間には、好きなことをして過ごして欲しいと思っています。




これだけの凝った環境と、多感で複雑な心を準備してくれているのですから。






ここまでお話してきて、私が 「神様が、神様が」 という部分が宗教的で、抵抗を感じたという人も多いと思います。





ちょっと考えれば、私は既存の宗教の神様を否定しているわけで、宗教的ではないことになると思うのですが。




でも私が宗教的と思われようが、逆に宗教を否定していると思われようが、それは今はどちらでもいいことなのです。




私は 「神様がいるかいないか」 を証明したいわけではなく、 「人には義務は無く、好きなことをしていいのだ」 ということを証明したいのですから。









『宇宙はどう考えているか』


では神様的なものは存在せず、科学的な偶然の連続で、宇宙が生まれ、地球が生まれ、生物が誕生し、人間に進化したと。



それでも私は全然かまいません。





では、「科学的な偶然の連続で誕生したこの宇宙」 から、どうして 「人はすべきことをするべきだ」 などといった考えが生まれて来るのでしょうか?



宇宙もそんなことは全く考えていません。



というか、宇宙はなにも考えていません。





宇宙はただの科学的な偶然の連続なのですから。





そう、宇宙は何も考えていない、考えられないのです。




もちろん人に対し 「何々すべき」 などとは思いようがありません。






結局のところ 「人には義務があり、すべきことをするべきだ」 というのは 「宇宙の法則」 でもなく、「神様の作ったルール」 でもないのです。



繰り返しますが、人が人を支配するために、後から作り出した発想なのです。





だから、たいして恐れなくても大丈夫です。 



神様や宇宙に対して罪悪感を感じる必要はありません。





繰り返しますが、神様も宇宙も、 「あれをしろこれをしろ」 とは思っていません。


好きなことをすることに、罪悪感を感じる必要はありません。




これで 「好きなこと」 が少ししやすくなってきたと思います。





繰り返しますが、本質的には人間に何の義務もありません。



それは支配者的立場の人間(つまり全ての人間)、人間が自分の都合で作り出した幻想です。



皆さんが神様なら、人間に対して 「好きなことしなさい」 と言って、温かく見守ろうとするはずです。




例えば、部屋いっぱいに山や海や街の模型を作って、お気に入りのヌイグルミたちを配置して、それらに命を吹き込んだとします。



「さぁ、この環境の中で存分に楽しんでくれ!」




それ以外のことは、皆さんは考えないでしょう。






そしてイキイキと遊びまわったり、山によじ登りだしたり、手作り潜水艦を作って沈没させたり、 「好きなことを」 夢中になって始めるヌイグルミに喜ばせられ、愛着を抱き、応援したいと思うはずです。








ところが、



隅っこに固まって動こうとしない、




何かを蓄えることばかりしている、




「こんな世界じゃ何も出来ない」と文句ばかり言っている、







そして、 




「義務と思ったことを苦しげな表情で繰り返している」 




こういったヌイグルミたちには、



「なんでだよ・・・」



と思って次第に興味を失うはずです。






そうでしょう?













であるならば、皆さんはまず自分自身に対してもそうしたらいい。 



自分を好きにさせるべきです。






好きなことをしたらいい。





そして他者も、自由にさせるべきです。








していないのであれば、何故していないのですか?









皆さんは好きなことをしていいし、させていいのです。 






むしろ好きなことをした方が、させた方が良いのです。











『好きなことと不安』



人は好きなことをしていいのです。




繰り返しますが、皆さんが神様ならば、人間に対して 



「好きなことをしなさい」



ためらうことなく、そう言えることでしょう。









しかし人である我々は、なかなかそれが言えません。 



そして自分自身も好きなことが出来ません。









では、 「神様と人の違いは何か?」 ということになります。






それは 「不安を感じるかどうか」 の違いです。



神様と人間の違いは 「不安を感じるかどうか」 です。










神様には不安はありません。






全知全能であり、過去のことも、未来のこともお見通しでしょうから、不安を感じようがないはずです。






もし不安があるとすれば、何でも出来て、何でもお見通しの状態が、永遠に続くことへの不安だけでしょう。




それは人間の基準で考えると、退屈な生活といえるかもしれません。








一方で人間は 幸いなことに  「不安」 を感じることが出来ます。




しかし多くの人は、 「不安」 を感じられる幸せを自覚せずに、 「不安を感じないこと」 を最も優先して生きています。






そしてまただからこそ、身近な相手、大切にしている相手に関することだからこそ、強く不安を感じ、その結果好きなことではなく、



「自分が既に知っていること、予想が付くことをさせようとする」



のです。





なぜならそれが、自分が 「一番不安を感じないで済む道のり」 だからです。





自分の仕事に不満を言いながらも、それでも子供を自分と同じ会社に入れようとしたり、家業を継がせようとしたりする親は、この典型です。





不安なのです。



多くの人は、不安を感じないで済むことが最優先なのです。





だからまた好きなことが出来ない。



楽しいか、好きなことかを、最優先にはしていないのです。





一度通った道を歩く、知っている道を旅する、案内するようなものですから、それほど楽しくはないでしょう。


ある意味で、神様の生活に近いですね。








さてここまで来て、思わぬことがハッキリしてきました。




そう、不安があるから、人が生きることは面白いのです。 


楽しめるのです。





しかし多くの人が好きなことをしないでいる、させないでいる理由も、不安がある、恐れているからなわけです。






人が好きなこと、楽しいことには必ず何らかのリスクがあります。 




しかし多くの人は不安を感じないことを最優先しているから、好きなことが出来ないのです。







不安を感じないでいられることを最優先にしているうえに、好きなことは 「悪」 というイメージまで生まれた時から刷り込まれ続けている.




これでは好きなことが出来ている人間が少ないわけです。







恐れているから、先人の言うことに従って、 



「するべき」 



と言われたことをすることで安心しようとして、そして好きなことをしないでいるのです。





その 「するべき」 と言われたことが、



どんなに辛く苦しく、奇妙で、そして心身に傷を残すことであっても、



不安を感じるよりいいのです。






つまり視点を広げてみると、 



「不安を感じたくない」 


という 


「好きなこと」 


既に自分で選択しているのです








既に 「好きなこと」 をしているのです。






問題は自分にその自覚があるかどうかです。




「これは自分が好きで選んでいることなのだ」 と。






不安を感じたくないという、好きなことを、自分で選んで、既にしているのだと、まず自覚することです。







そうであれば、自分で決めた事ですから、自分が望めばすぐに変えることが出来ます。








ですがそうでなく、



「誰かの指示で、私は嫌だけれど義務として好きでもないことをしているのだ」



と考えているのでは、自分ではどうすることも出来なくなってしまいます。







自分で決めた事ではない、そして自分には抵抗する力も無いと思っているのですから、当然です。



となると、自分に指示してきている 「誰か」 の考えが変わるのを、 「忍耐」 しながら待つしかありません。








そういう日は、おそらく来ないでしょう。





来たとしても、またその 「誰か」 の考えはコロッと変わるかもしれません。



つまり結局、その後も 「運任せ、成り行き任せ」 の生活が続くことになるのです。






そんなことはせずに、



「そうだな、これまでも、自分で好きな方を選んできたのだ、これたのだ。 これからも好きな方を選ぼう、それも意識して、楽しいことを選ぼう」



と自覚を持って覚悟することです。











『意志とアクシデント』




しかしこうも思われると思います。



「確かに言われてみれば、今までも 『こっちの方がマシ』 だからということで、広い意味で自分で 『好きな方』 を選んできたともいえるだろう。



しかし人生には、自分の意志とは関係なく、どうにもならないような事が起こることもあるはずだ。


ニュースでもやっていた、飲酒運転の対向車が飛び込んできた事故なんて、被害者がどんな判断をしたから、事故にという結果につながったというのだ?」




と。







確かに、人の人生には自分の判断では決められず 「運任せ」 から逃れられないと感じる部分があり、100%出来事は自分の判断の結果、とは言い切れない、と私も思っています。


不慮の事故や災害など、そうですね。








しかし、そういったことがあるからといって、 「人生など運任せで、自分にはどうにもならないものだ」 と考えるのは冷静ではありません。






例えば、いつも挨拶をすると気持ちよく返してくれる、毎日顔を合わせる友人がいたとしましょう。



ところが何千、何万回のやり取りの中で、何度か挨拶が返って来ない、思いもよらない接し方をされたことがあったとします。







この時に、 


「あいつは挨拶もしないし、何考えているのかよく分からない行動をする奴だ、あいつなんてそんなもんだ」


と決めつけてしまうのは、冷静な判断でしょうか?





それからずっと、 



「あいつはそういう奴なんだ、何をするかわからない、危ない所があるんだ」 



と決めつけ、怖がりながら接し続けることは、自分に得を、利益をもたらす行動でしょうか?







つまり、




「人生なんて思いもよらない事があって、自分ではどうにも出来ないもんだ」




と決めつけ、開き直って成り行き任せで生きるのは、自分にとって 「得」 な行動なのかということです。









そうではないでしょう。




「不慮の出来事があったとしても、それでも、起こる出来事は自分で選んだ結果、だからこそ自分で変えられるのだ!」




そう考えて行動した方が 「得」 なのです。 






生きている間の時間を、自分の建設的な意志で、自由に過ごせるのです。








だから覚悟を決めて下さい。 自分の判断だけが、運命の運命を決めるのだと。 




ここが 「勇気」 を奮うところですよ。







厳しいことです。



でも、そういうものだと認め、覚悟を決めない限り、いつまでも自分の人生を歩むことは出来ません。 






「思いもよらなかった!」 アクシデントに、いつまでも振り回され続けるでしょう。



つまり 「あれをしろ、これが義務だ」 と命令され続けるままで、起こる出来事に受け身で翻弄されるままで、自覚を持って自分で好きなことをすることは出来ないということです。







自分の運命に責任を持っているのは誰か?





それは100%自分自身だと。



そう胸に刻んでください。 そうすれば、より好きなことが出来るようになっていきます。







そしてこう覚悟を決めていれば、不測のアクシデントにも、挫けることはありません。



(つづく)

心の術の使い方・・・10




いくら強くなったとしても、相手の動きは決められません。




もちろんレベル差によっては、


ここで下がらせる、ここで攻めさせる、ここで動けなくさせる、


かなりコントロールすることは出来ます。





しかし自分のレベルが上がれば、実際に戦う種類のものであれば、必然的に対戦相手のレベルも上がるわけですから。









それは起こる出来事、接する相手の反応と同じです。





そこに一喜一憂しているうちは、苦しみは続きます。











相手の動き、全体としての力の流れ。



起こる出来事、他者の反応。








それを如何に自分の力に変えるか、



それが体の術の神髄であり、



それを如何に感謝に変換するか、



それが心の術の神髄です。













とオレは思っていますし・・・・・まぁ、ありきたりなオチでしたね。








「感謝が大事」なんて昔からよく言われることだし、



「感謝」



ってシールをあちこちに貼っている人も、結構おられるじゃあないですか。











しかしすぐに形だけになってしまうと。







何故でしょうかね?










我々は、



「感謝」




と言う言葉を、もっと深く探り、捉え直すべきではないでしょうか?





次回からは「好きなことをして暮らす」という流行りのテーマをもとに、「感謝」について進めます。



(つづく)


















心の術の使い方・・・9



「罪悪感に気をつけろ」


「 自分にとっての幸せとは何か、どうなりたいのか。 あなたが決めなければ、決められるか、成り行き任せになる 」







前回を見てから、なんとか紙に書いてみたという人は、それでもまずいないと思います。





みな、


「書けないんですっ!」


って言いますから。







それだけ、切羽詰まった深刻な願いなんて無いということでもあります。


良かったですね。

結構幸せってことです。


だから、当面は感謝だけしていればいいのです。






突き放しているわけではありません。



現状に感謝しているうちに、



今まで植えつけられてきた心のブロックが剥がれて、



幸せにつながる良い願いが出せるようになるのです。



達成の果てに感謝が生まれるというのは、順番が違うのです。



感謝の気持ちがまず先にあるべきなのです。





『その17』

目標・夢の達成の果てに感謝が生まれるのではない。

目標・夢・動機の根底に感謝があるべき。

それが幸せな人生の秘訣であることを忘れない。








「負の感情」


を動機にスタートすると、やったことある人は知っているでしょう? どこまで行っても幸せになりません。






「欠乏感」

や、

「反発心」

や、

「コンプレックス」

や、

「罪悪感」  


などなど。




どれもメディアがしきりに煽り立ててくる感情ですね。





特に 「罪悪感」 は善人面していることが多いから注意が必要です。



組織が、人が人を操ろうとする時に、一番利用することが多い。





親子関係においてもね、


そうでしょう?






便利ですものね。



でもそれをやると、子供に不幸感が、原罪意識がつきまとうことになりますよ。








罪悪感などに頼らずに、面倒でもしっかり説明し理解させるべきです。





それも、


「何故、それをしてはいけないか」


ではなく、


「何故、そうしたほうが楽しいか」


を。








これは目標をたてる際についても同じです。



「何故、これをなさなければいけないか」


ではなく、


「何故、これをなしとげたら、皆にとって、楽しいか」


プラスの感情を根底において考えること。





例えば、


「ダイエットしないと嫌われるかもしれないから痩せなきゃ」


ではなく、


「ダイエットして〇〇君を、すれ違う皆をビックリさせて振り向かせよう!」(女性の場合ね)


と考える。





やることは食事制限、適度な運動等と全く同じでしょう。


しかしその道のり、ゴールした時の感情はまるで違います。






何回か書いていますが、


「何をするかよりも、どのような気持ちで行うか」


の方が結果にも大きく影響するのです。






そして、


『幸せな人生になるかどうか』


という点においても。




何をするかよりも、どのような気持ちで行うか、その方が大事なのです。




だから、自分の目標をたてる時にしても、人を動かす時にしても、くれぐれもそのことを忘れずに、プラスの動機を、感謝の気持ちを根底においてください。



そしてそれは、なるべくみんなにとって良いものにしてください。







そうすれば、そうしただけ競う生き方を避け、



『天の助け』



を得ることが出来ます。



天とは、



「人」のことです。












とはいえ、罪悪感を利用せずに、毎回ポジティブな視点から丁寧に説得するなんて、大変でやってられませんよね。


躾けようという気があるだけいいんじゃないでしょうか。





世の中には、子供を手っ取り早く黙らせようと、中毒性のある玩具や食品を与え続けている親が沢山いるんですから。



おもちゃもついているし、安いしねって。


あぁ恐ろしい。







小児癌がいつごろから増えたかご存知ですか?


既製品のパンに入っているショートニングの危険性は?



ある病院が調査した結果では都内の先天異常の出生率は6.9%だったんです。

ベトナム戦争の時に、アメリカ軍がまいた枯葉剤ダイオキシンの被爆地の先天異常出生率は5.44%ですけど知ってましたか?





ダメダメこんなの許せない。


もっと世の中に知らせなきゃ。


オレも田舎暮らしとかしている場合じゃないでしょ。







今まで手を付けていなかった、よくバイク乗りがたむろしている峠の入り口の広場の清掃を行いました。


ここは自分で決めたエリアの範囲外でしたが、自分もまたバイクに乗るようになって、峠を走るようになりましたからね。





パッと見からして汚かったけど、2時間半でなんとか綺麗に出来ました。


集めたゴミの回収は市役所に依頼。


全部自分で片付けてしまうと、ますます誰も何もしてくれなくなってくることに気づいたので。







こんなに「環境!環境!」いう奴は多いのに、手伝ってくれる人なんて未だに1人も現れないですね。






世間の 「悪」 を声高に非難している人達だって、捨ててはないってだけで、特に拾いはしていないでしょう?

















広場の奥の凹みに大量の車・バイク関係のゴミ。


オーディオ、ナビ、ワックス、工業用グリース、ブレーキフルード、バッテリー、電池、殺虫剤





凹みには水源地になっている湖につながる配管があって、溶けだしたのはみんな流れ込んでいっていたんですよ。


すぐ近くに浄水場があるんです。

どれだけの発癌性物質が入り込んだと思います?







浄水場は毎日検査して送水しているから安全なはずだって?


いやいや検査や国の基準がそもそも信じられないですから!


企業を優先して、国民の健康をないがしろにしているんです!






あぁ本当に恐ろしい!





オレもこんな「心の技術」とか言ってる場合じゃないでしょう。





フルタイムで浄水場より上流のゴミ拾いして、皆にもペットボトルの水しか飲まないように、街頭で辻説法しなきゃダメでしょ!





それが正しいことでしょ!




























私は空手時代からずっと、いろんな道場で多くの人と出会ってきたんですけど、そのなかで最初の志を果たせずに去っていく人間を山ほど見てきたんです。






「必ず強くなります!」


「黒帯を取ります!」


「チャンピョンになります!」





95パーセントの人は、続かなかったですね。







でもみんなそれぞれ理由があったんですよ。






「学生だし、勉強に集中するべきではないかと思うんです」


「親が体調良くないみたいで近くにいてあげないと」


「彼女との時間をもっと取ってあげたいんです」


「長男だしそろそろ家業を継ぐ気になりました」






もっともな理由です。







世界にはいろんな楽しいこと、有意義なこと、可能性は人それぞれ沢山あります。


私は格闘技だの武道だの、それだけにいつまでも固執し続けるのは、そんなに価値のあることではないと思っています。






でもそれはある程度やってみて、自分で体験してみないと、分からないことですから。



だからやめるなら、殆どの人の最初の目標 「黒帯を取る」 それは果たしてからにした方がいいと思います。






そうでないと、

「挫折体験」

として、何時までも自分の中に残してしまいます。




世間には気にしない人もいると思うんですけど、武道始めるような生真面目な人はそうではないですから。




特に若いころなら、3年前後集中して頑張れば誰でもどうにかなる話ですし、それからいろんなことに挑戦する、時間も機会もまだまだあるわけで。









やめる理由が嘘だったとは言いません。


でもその後に、その理由を大事に守った人がどれほどいたかな。











つまり、


「頑張っているし優秀な面もあるのに、目標や夢が叶わない人の2大悪癖」


である、


「集中できずにブレてしまう・感謝がない」


の話を、「集中」の点についてもう少し話したかったために長い前ふりをしたわけです。








ぶれてしまうんです。


目標に集中し続けることは本当に難しい。




自分の事業が上手くいっていない人で、急に社会的な問題に関心を持ち出す人というのが結構おられる。




政治的な問題や、環境の問題、あといわゆるフリーメーソンがらみの「世界的な陰謀論」とか。




力を入れるといっても、そういうのを仕事もそっちのけで調べ出したりとか、場の空気を読まずに周囲に話したりするようになったりする程度が多いですが。




本業が上手くいっていないんだから、自分の仕事に集中するべきではと言うと、

「オレは世界の正義のために動こうとしているんだ。世界は今危機なんだ。君は知らないだろうがこんなことやこんなことが行われていてだな、私は自分を犠牲にしてもだな・・・」

みたいなことを言う。




まずは、自分の仕事をしっかりでしょう。


自分の本業が上手くいっていない人に、世界のことは任せられないですよ。




気を付けましょう。



人が弱っている時に 『正義っぽいもの』 は忍び寄ってくるんです。





本人も自分の問題から目を背けたいと思っていることが多いから、そういった


「大きくて不透明で、結局のところ誰にもどうにもならない、そして正義っぽい問題」


の中に逃げ込んでしまう。









まずは自分の目標・夢に集中することです。




願い続け、


一番手前のことから、


一つ一つ、


叶えていくことです。






そして常に幸せを感じて生きることが出来る人になったら、その時は世界のこともお願いします。




皆で10人乗りのバスを借りて慣れない場所を走ることになった時、

運転を凄く怖がっている人や、


「前の車煽り気味じゃねぇか?むかつくわ、許せねぇ!」


とやたら怒っている人に、代表してハンドル任せようと思いますか?






そんなこと絶対にしないでしょ?







あなたが幸せでなければ、人を幸せにすることは出来ません。


幸せな世界を作りたいなら、逃げずに、まず自分が幸せになってください。








その為には感謝し、集中することです。



集中するには、そう、明確な迷いの無い目標が要ります。














夕方バイクに乗って峠に行ってみると、ゴミはちゃんと回収されていました。



湖が綺麗、とても幸せな気分。






これが大人の休日。


生きていて良かった。





ハンバーガー食いたい。






「体の術の神髄、心の術の神髄」






自分の内外を流れている力を、「体」を通してまとめ上げ、狙った位置に「ベスト」のエネルギーを発生させる。



これが体の技術の神髄です。







相手に先に一発くらった。


それだって、良いも悪いもありません。






ただの出来事です。






相手のエネルギーを利用して、カウンターのチャンスです。



つまりチャンスなのです。








問題はそれをどう扱うか。







これが「友達」のすることなんですかね? 友達にさせることなんですかね?







相手の重心は前に乗っているんだ! 掴んで! 捻り倒して! 叩き込め!






今度はそれから報告して欲しいですね。



そしたら、ともに祝いましょう!









一方で「心の術」です。




生きていく中では誰にでも、


「良いと感じてしまうようなこと」


「悪いと感じてしまうようなこと」


最初のうちは、大して変わらず起きるでしょう。










それらを「心」を通してまとめ上げ、







「感謝」


に変換する。




これが 「心の技術」 の神髄です。







この


「心の技術」


が、


「実際に起こる具体的な出来事」


を本当に変えていきます。












それに、私の言いたいことは皆さんお気づきでしょう。






感謝の気持ちが湧く心の状態が、すなわち幸せなのです。





私の言う、


「幸せな人」


とは、感謝出来る状態の人のことなのです。









「やってやったぜ!! 思い知ったか!!」


の果てに、幸せはありません。



出来れば、遠回りしないでください。









恐れず、怒らず、不足を訴えず(自虐せず)、



感謝する力、「感謝力」を磨いてください。



そして「感謝」に対する理解を深めてください。




(つづく)